【くまもと五輪物語】松野明美(下)失意の「バルセロナ」落選 たくさん泣いて今がある

©株式会社熊本日日新聞社

県議としてスポーツ振興や福祉の充実を訴える松野明美さん=熊本市中央区
バルセロナ五輪のマラソン代表選考を前に記者会見する松野明美=1992年3月26日、熊本市

 バルセロナ五輪(1992年)のマラソン女子代表が決まる2日前、23歳の松野明美は熊本市で会見。「私を選んで」と日本陸連に訴えた。好タイムを持つ松野か、世界選手権入賞の有森裕子か-。代表3枠の最後の椅子は混戦模様だった。

 「当然選ばれると思っていたので、『選んで』なんて言うつもりはなかった。所属先に『松野は元気か』『走れるのか』という電話が殺到していたので、順調に練習を積めていることを世間のみなさんに知らせよう、という会見だった」

 日本陸連が選んだのは有森だった。松野は所属先の岡田正裕監督に呼ばれ、静かに決定を知らされた。

 「有森くんが通って、君が落ちた、と言われた。五輪のために練習して結果も出したのに…。初めて陸上に裏切られた気がした」

 周囲に止められても走るほどの練習の虫が、初めて練習を休んだ。待ち構える報道陣を避けるため、自ら車を運転し、当時大学生の弟が住む福岡のアパートに向かった。

 「落選の実感はないのに涙が止まらなかった。数カ月後に練習を再開したら、体が思うように動かず驚いた。積み上げるのは大変だけど、失うのはあっという間」

 夢見たバルセロナ五輪の女子マラソンは、一人でテレビ観戦。自身と代表の座を争った有森が画面に映るたび、悔し涙が流れた。

 「自分ならこんなペースで行くとか、ここで前に出るとか、画面の中で自分が走っているような気持ちだった。出場していたら金メダルを取れていたと今も確信している。それくらい、当時は心も体も充実していた」

 その後も世界選手権に出場するなど活躍したが、95年冬、脚のけがに泣き引退した。

 「五輪落選で張り詰めた糸が切れていたと思う。精いっぱいやれたし未練はなかった」

 27歳で始まった第二の人生。コーチやタレント活動を経て、たどり着いたのが議員の仕事だ。2010年に熊本市議、15年には県議となり、スポーツ振興や福祉の充実を訴える。

 「小さな声を政治の場に届けるのが今の自分の役目。初心を忘れずに全うしたい」

 東京五輪を前に日本のマラソン代表の選考方式は一本のレースで2枠を決める、一発勝負に近い形となった。

 「少しずつ選手が納得できる形に変わってきた。五輪は選手のもの。あいまいな選考に選手が苦しめられることがあってはいけない」

 現在も、毎朝6時から自宅周辺を約20キロ走る。勝つために走っていた現役時代とは違う。自分は何をすべきか、何ができるのか。走る間、今の自分の在り方を見つめる。

 「たくさん泣いた経験があるから、今強く生きられる。五輪は素晴らしい思い出だけど過去のこと。負けず嫌いだから、過去の自分にも負けたくない。母として、議員として、一人の人間として、昔以上に輝きたい。そのために走り続ける」

<取材後記>「五輪は過去のもの」

五輪落選後、松野さんにファンから手紙が届いた。書いてあったのは「五輪だけが人生じゃない」という励ましの言葉。当時は受け入れられなかったというが、今の松野さんは「五輪は過去のもの」と言い切る。議員の仕事や子育てといった、陸上に代わって情熱を傾けられるものが見つかったからだろう。「でも死ぬまで走ることはやめないな」。栄光と挫折の先に松野さんが得たのは、生きるエネルギーだった。(丁将広)