中日育成の「名大くん」が歩む支配下への道 異色経歴左腕の“目標達成メソッド”

中日・松田亘哲【写真:小西亮】

松田は小・中学校時代は軟式野球、高校はバレー部に所属していた

 黒縁メガネの奥にある瞳には、新人らしからぬ落ち着きが宿っている。国立大の名古屋大から育成1位で中日に入団した松田亘哲投手は、報道陣に対しても相手の目をしっかり見ながら挨拶する。沖縄・読谷球場で1か月過ごした初めての春季キャンプ。将来性を買われてプロの世界に飛び込んだ左腕は、どう未来を描こうとしているのか――。

 スタンドでキャンプを見学するファンたちが「あの選手、名大くんだね」と言っている声が、耳に届く。

「そういう愛称みたいなものがあることで、育成なのにある程度注目していただいているのはポジティブな面です。ただ、あまり色眼鏡を通して見られるのは好きではないので、ネガティブな面もありますかね」。そう松田は淡々と言って、現状を客観視する。

 確かに、経歴は目を引く。小・中学校時代は軟式野球に励んでいたが、愛知・江南高校ではバレー部に所属。守備専門のリベロとしてプレーした。硬式野球を始めたのは、大学に進学してから。名大ではかつて、152キロ右腕として注目された七原優介氏(トヨタで現役引退)もいたが、松田が同大初のプロ選手に。“異色”や“快挙”なんて言葉がついてまわる。

大学入学当初、直球は120キロほどだったが、、4年間で最速148キロにまで成長

 沖縄の地で踏み出したプロとしての第一歩。「僕はまだ、他の人と比べて劣っている。まずは基礎の部分である体づくりから。1歩ずつ、1歩ずつ」。育成選手に与えられた期間は原則3年間。1日でも早く支配下に……なんて考えるのが常だが、松田は前のめりになりすぎない。「1年でも長い。1か月でも長いんです。その中で、コツコツやっていくことが大事」。

 うまくいくことばかりではない。むしろ壁にぶち当たることの方が多いだろう。だが、それでいいのだと言う。「支配下になるという大目標、その軸さえブレなければ、目先のことでブレが生じても修正していけばいいので」。過去の“成功体験”があるからこそ、言い切れる。

 名大時代、入学当初の直球のスピードは120キロほどで「コントロールにも苦労しました」。それでも「プロにいきたい」という大目標だけは決してブレなかったという。日々出てくる課題と向き合い、愚直に前進と後退と繰り返してきた。その結果、4年間で体重は20キロ近く増え、最速148キロにまで成長。「焦ってもしょうがない」。地に足をつけた松田流の成長法を、プロの世界でも実践する。

 そして、もうひとつ欠かせないのが「継続していくことです」。キャンプの1か月が終わるころには、表情に充実感がにじんでいた。「腕が振れるようにはなってきました。僕の場合はまず、右打者のインコースに強い球を投げる精度を上げていくことです」。大化けする可能性を秘めた背番号「207」には、確かに見えているのかもしれない。2桁の背番号をつける日も、「名大くん」を卒業して「松田」と認知される日も――。(小西亮 / Ryo Konishi)

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