「何をしていたか覚えていないプロ3年間」元ロッテ島孝明がぶつかった壁

21歳の若さで現役引退を決意した元ロッテ・島孝明さん【写真:編集部】

21歳という若さで現役を引退し大学受験、新たな人生を歩む

 3月の開幕に向けて、ルーキーの動向にも注目が集まる千葉ロッテマリーンズ。一方で、昨年まで汗を流していた選手の中に、野球と決別し、新たな人生へと進みだした男もいる。昨年限り、21歳の若さで現役を引退した元ロッテの島孝明投手がFull-Countのインタビューに応じた。現在は大学進学を目指し、受験勉強中だ。

 島は150キロの直球を武器に、千葉・東海大市原望洋から2016年ドラフト会議でロッテに3位指名を受け、入団。高校時代は侍ジャパンにも選ばれた逸材で将来を期待された。しかし、けがなどに苦しみ、1軍登板はなし。昨シーズン後、育成契約を打診されたが、現役引退を決意した。前編では、島が現役ではなく引退を決断した理由を聞いたが、後半ではロッテ時代の3年間を振り返ってもらった。

――プロ野球3年間を一言で振り返ると?
「振り返れば一瞬でしたけれど、本当にもう3年かー、という感じです。でも、一年一年で本当にイベントがたくさんありました」

――振り返って楽しかった?辛かった?
「半々ですね。楽しいこともあったし、それだけじゃないというのが、やっぱりプロの世界でもあるので、どちらもありました」

――一番楽しかったことは?
「一番は、やっぱり3年目のオープン戦で初めてマリンスタジアムで投げられた、あの瞬間が一番楽しかったですね。自分のホームグラウンドでファンの方もいっぱいいて、一番良い思い出として残っています」

――そのマリンスタジアムは自身にとってどんな場所?
「地元の球場で一番馴染みのある所なので、いい思いも、よくない思いも本当に勉強をさせてもらいました」

――そのマリンスタジアムで浴びたプロの歓声って?
「いままで高校野球とかで、試合をしてきましたけれど、全然違ったものでした。雰囲気とか、見える景色もなぜかすごく新鮮でした」

――どう違った?
「ユニホーム… なんだろう。まず、マウンドに行くまでが車に乗っていくから違いました。その間に、ファンの近くも通るし、高校の時だったら、ベンチからひょいって走って行ったので。車に乗っているあいだに、何考えていいのかわからなかったです」

――リリーフカーに乗ったのも初めて?
「初めてでした。どうしたらいいのかわからなくて、歩いて行こうかな?と変な気持ちになりました」

――登場曲も流れて?
「曲も流してもらって、賑やかで常に音が流れていて、そこが違うところかなと思いました」

――マウンドでの気持ちは覚えている?
「さすがに覚えています。でも、ただ強気で投げるだけと決めていたので、それをあの1イニングの間に通してできたなと。全部ストレートだったし、うまく3人で抑えられました。終わった瞬間、すごくほっとしたなという思いがありました」

――あの時はキャンプも1軍でオープン戦も帯同して調子が良い時だった?
「良かったですね。1軍にいって全てが初めての体験だったので、那覇(1軍キャンプ地)に行ったこともなかったので、本当に毎日楽しみながらやれていました」

投げ方がわからなくなった1年目の秋

――その一方で辛かったことは? 1年目の秋の鴨川キャンプで話を聞いた時から悩んでいましたよね?
「1年目の秋からずっと、あーでもない、こーでもないとやっていました」

――それは何を悩んでいた?
「自分のパフォーマンス、投げたいボールをどう投げようかなと毎日悩んでいました」

――それは、入団した時には悩まなかった?
「入ったときはあまり悩まずに投げられました。けれど、日を重ねていくうちに今までと環境も違うし、体の変化などもたくさんある中で、本来の自分の姿というのは見失いかけたのが、1年目の秋ぐらいでした」

――身体の変化というのは?
「体もトレーニングとかで大きくなったり、練習のスタイルにもあんまり馴染めなくて、高校時代と全く違ったので、それに合わせることが難しかったです。環境の面で言えば、寮も初めてでしたし、高校時代も自宅から通いだったので、寮の一人部屋で何をしたらいいのかわからなかった。そういうことにも対応するのが難しかった。息抜きの仕方がいまいちわからなかったです」

――プロ野球選手というプレッシャーは?
「練習を見られることは今までなかったし、常にファンがいるということは、今まで試合だけだったので、経験したことがなかったです。見られるというのは結構自分も意識はしてしまいました」

――2年目のシーズンはあまり投げられなかった?
「本当に投げられたのは終わりの方からだったので、それまで地道に過ごしていました」

――その期間はどうしていた?
「怪我でもないし、投げられるわけでもないし、多少情緒不安定というか… 本当に精神的にも安定はしていなかったですね」

――普段は何をしていた?
「寮に帰って、何をしていたのだろう… あんまり覚えていないです。(笑)。何していたかな? 本当にそんな感じです。何をしていたかさえ覚えていないです」

――それでも、夏の高校野球千葉大会を見に来たりしてた。
「こもりっぱなしは良くないなと思って。1年目も本当にこもっていたし、2年目になってちょっとずつ周りのことも分かり始めて、とりあえず外にでるみたいなことが多かったです」

――とりあえず外に出てどんなことを?
「外に出て、カフェでぼーっとしていました。本当に外の空気を一人で吸いに行くかんじでした。高校の野球を見に行くことは外に出る機会でもあるし、楽しんで見られました」

――それでも2年目の秋ぐらいから復調の兆しがみえたのはどうして?
「あの時は、シーズンは投げていたけれど、投げては打たれてという感じでした。秋のフェニックスリーグで、そこでかなり感じがよくなりましたね。9回抑えという役割を持たせてもらえたこともあったし、そこで自分も抑えられたということもあって、あの時期は楽しかったですね」

――投げられないのと、投げられるようになったのは何が違った?
「わからないです(笑)わからなかったからダメなんだろうな(笑)」

――2019年のキャンプはどうでした?
「良い日と悪い日、そういう時しかない。ブルペンは本当にひどかったけれど、本番では奇跡的に抑えられたり、難しかったです」

――それが“イップス”?
「そう呼ばれますね。原因がわからないからこそ、手ごわいです(笑)」

――2019年シーズンはどうでした?
「本当に前後半で調子がはっきりしていたという感じです。7月まではそれなりに投げていましたけど、後半に入って怪我もあったので、後半はもうほとんど投げていないです」

――怪我というのは?
「腰痛とか、肉離れとか。ずっとシーズン前半に投げてきて、疲労だったりもあったと思いますが、後半に入って怪我もして、本当に前半後半ではっきりしていました」

――その中で、シーズン前半になげられて楽しかった?
「その投げられている中でも、やっぱりしんどいこともあるので、結果を出して楽しいとは思えました。終わった瞬間に『あーよかった』と思える。投げるまでは気持ちの面でもしっかり保っておかなくてはいけないし、気の抜けない毎日でしたね」

――抑えという役割も大きかった?
「ありますね。どんな場面で投げるのかとか、やっぱりそういうことは関係してきましたね」

――改めてプロ野球3年間でわかったこととは?
「自分の譲れないものはしっかり持っておかないとダメだなと思います。軸だけは絶対曲げないというものを持っていた方が、やっぱりブレずにやれるかなと思います」

まだ21歳「野球しかやっていないと思われたくない」

――そこが足りなかった?
「自分の中にそれまではそれなりにあったのですが、でもそこまで強くなかったのかなって思います」

――それでもプロ野球選手になれてよかったことは?
「大変なことは多かったですけれど、本当にみんなが憧れる世界に入れたこと、いろんな人が自分のことを知って応援してくれたということは、本当に貴重な経験をさせてもらったなと思います」

――今後、プロ野球との関わりは?
「この経験を生かしたいというのはあるので、その形が今後どうなるのか予想がつかないですけど、またプロに携わる機会があればいいかなと思います」

――まだ21歳、ここからどういう未来像を描いていますか?
「まだ21歳(笑)こいつ野球しかやっていないとは思われたくないのが一番あるので、本当にいろんなことを知っている人になりたいです。いろんなことを学んで、いろんな考えを持てるような人になりたいです」

――まずは大学生になって、その後プロ野球の経験を活かすことが目標ですか?
「それを活かしたいです。周りの人にも『プロ野球選手ってこんなんなんだ』と呆れさせる部分を見せたくないので、プロ野球選手をやっていたという名を汚さないような人になりたいです。」

――ファンのみなさんにメッセージを
「入団当初からここまで、いろんな人に出会って本当にいろんな言葉をかけてもらいました。それが本当に励みになったし、なかなかそういうファンと交流を持つということは普通に生きていたら得られないことだと思うので、そのファンのみなさんに出会えたことに感謝をして、野球以外のところでも頑張っていきたいと思います。またどこかでお会いできることを楽しみにしています」(小倉星羅 / Seira Ogura)

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