「違法薬物」のパンデミックを許さない!

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大物芸能人が違法薬物使用で捕まる事件が相次いでいる。それを予期したかのように最高のタイミングで出版されたのが『マトリ――厚労省麻薬取締官』 (新潮新書)だ。薬物犯罪を摘発する「厚労省麻薬取締部」(通称マトリ)の元幹部が、ベールに覆われた組織や捜査の実態について赤裸々に語っている。朝日新聞や毎日新聞でも大きく取り上げられていた。売れ行きも好調のようだ。

麻薬は世界全体で50兆円ビジネス

本書の最大の特徴は、著者の瀬戸晴海さんの顔写真が表紙の帯に大きく登場していることだろう。何しろ目つきが半端じゃないほど鋭い。そのまま任侠映画に出演しても十分通じる迫力がある。「俺たちは、猟犬だ!」「本邦初! 元麻薬取締部部長がすべてを明かす」というキャッチが付いている。

瀬戸さんは1956年生まれ。明治薬科大学薬学部卒業。80年に厚生省麻薬取締官事務所(当時)に採用され、九州部長などを経て2014年に関東信越厚生局麻薬取締部部長に。18年3月に退官した。業界では「Mr.マトリ」と呼ばれていたという。

瀬戸さんがマトリに入ったころは、摘発対象の薬物といえば、覚せい剤、大麻、コカインなど数種類しかなかった。それが今では合成麻薬、危険ドラッグ、さらには向精神薬も加わり40種類前後にまで増えている。多種多様な薬物が氾濫しているのだ。取り締まる側にも常に知識の更新が要求される。マトリのメンバーは全国で約300人。うち65%は薬剤師の資格を持つ。

薬物犯罪を「産業」として見た場合、世界全体で年間50兆円以上になるマーケットが出来上がっているという。末端ユーザーは、一般人から芸能人まで様々だが、薬物ビジネスを支配しているのはその世界のプロ。内外のシンジケートに属する犯罪者集団だ。海外では麻薬摘発で銃撃戦が起きたりしている。取り締まる側の目つきも鋭くならざるを得ない。

「国際捜査」が日常化

本書のもう一つの特徴は、瀬戸さんが末端の捜査員ではなく、マトリの実質的なトップを経験しているということだ。東京地検の元特捜部長が、特捜検察について書き残すようなものだ。多くの情報が集中するポスト。多数の厄介な事件の指揮をとってきた「Mr.マトリ」の人生が本書に凝縮されている。

一例をあげれば、冒頭で紹介されている「国際捜査」がある。指揮を執ったのは瀬戸さんだ。最初の情報はオーストラリアの連邦警察からもたらされた。ベトナムから欧州各国やオーストラリアに覚せい剤を密輸している組織が、農業用トラクターに覚せい剤を隠して日本にも密輸しようとしているというのだ。

日本のトラクターは耐久性に優れ、中古品がベトナムで修理され、各国に再輸出されている。国際的な密輸組織が、中古重機の自然な取引を装って各国で密輸を繰り返しており、日本にもそうしたトラクターが逆輸入される日が近いというのだ。

一年間に及ぶ内偵捜査に延べ1500人の捜査員が投入された。やがて疑惑のトラクターが、ベトナムからオランダ経由で博多港に到着。税関の特殊検査装置でチェックしたところ、確かに内部に不自然な影が見つかる。厚さ24ミリの鉄板を4時間がかりで電動カッターで切り取ると、中から220袋に小分けされた108キロに及ぶ覚せい剤が出てきた。

ここで日本側の受取人を捕まえれば、国内関係者だけの摘発で終わってしまう。取引にかかわった外国人も捕まえる必要がある。瀬戸さんらは、密輸された覚せい剤は押収して、代わりに氷砂糖を詰め直し、鉄板を再び溶接、塗装も完璧にやり直してから業者に引き渡した。トラクターの到着と時を同じくして海外から犯罪組織の関係者も来日、佐賀の倉庫に集まってきた。そこを急襲して現場で一網打尽に。逮捕者の国籍は日本、ベトナム、アメリカ、セルビア、カナダの5か国にまたがった。手配、運搬、仲介、案内など役割がきちんと分担されていた。まるでハリウッドのマフィア映画を見ているかのようだ。

物足りないマスコミの報道

このように薬物犯罪が国際化しているのが近年の大きな特徴だ。対処する日本の機関も、税関は輸入品検査、海上保安庁は船を使った不正取引、警察は暴力団対応など互いに協力し合いながら総合的な視点から取り組む。マトリの場合は犯罪対応と同時に、未規制の乱用薬物を調査する仕事もある。危険ドラッグ販売店を見つけ、検査命令や販売等停止命令も出せる。国民の健康被害を防止するという広い視野から業務を行っている。

今回、瀬戸さんが、OBとはいえマトリの内幕を明かすような本を出しているのも、現状を多くの国民に知ってもらうという目的からだろう。「違法薬物のパンデミック」を起こさないためには、単に違反者の摘発だけでは不十分。国民に怖さや悲惨さをよく知ってもらい、使わせない、買わせないための広報活動が不可欠というわけだ。

したがってマスコミの報道についても注文を付けている。物足りないというのだ。なぜなら違法薬物を取り巻く環境が激変しているのに、報道が単発的で、長期にわたる啓発ができていない。報じられるのは、「密輸覚せい剤を大量押収」とか、有名人が逮捕された時が中心になる。一時の話題になっても、すぐに忘れられてしまう。マスコミは専門記者を養成すべきではないかと提言している。

そういえば、石井光太さんの『本当の貧困の話をしよう』(文藝春秋)によると、少年院の女子入所者は、「覚せい剤取締法違反」が24.7%を占めてトップになっているという。未成年、しかも女子に広がっている。覚せい剤でクスリ漬けにし、売春させて稼ごうとする悪い男や組織に引っかかっているのだ。

記者クラブの区分けからすると、東京のマトリは厚労省担当記者の持ち場だろう。今や新型ウイルスで手が回らないはず。事柄の性格からすれば、むしろ警視庁の防犯担当記者か暴力団担当記者が兼務するのがよさそうだ。すでにそうなっているのだろうか。

Windows95が犯罪を変えた

本書は以下の構成になっている。全体としては、スリリングな「白書」のような体裁。違法薬物に関するAからZまでがわかりやすく解説されている。

第1章 「マトリ」とは何者か
第2章 「覚醒剤の一大マーケット」日本
第3章 薬物犯罪の現場に挑む
第4章 ドヤ街の猟犬――薬物犯罪捜査史
第5章 イラン人組織との攻防
第6章 ネット密売人の正体
第7章 危険ドラッグ店を全滅させよ
第8章 「マトリ」の栄誉

近年の最大の特徴は「6章」で書かれているインターネットだ。利用者が自室から一歩も出なくても、通信販売で違法薬物を購入できる仕組みが出来上がっているという。1995年のWindows95の登場が、薬物犯罪の姿を大きく変えたのだ。渋谷や六本木で正体不明の売人から買うというのは、少し前のスタイルらしい。最近では仮想通貨も利用される。IT社会が薬物犯罪をますます見えにくくしている。そして水面下で汚染が広がっているのだ。マトリでは外国語学部の出身者はもちろん、電子工学専攻者も採用、コンピュータの消去データの復元・解析(デジタルフォレンジック)の専門家も養成しているという。

BOOKウォッチで紹介した『闇ウェブ』 (文春新書)や『フェイクウェブ』(文春新書)では、違法薬物の取引が国際化し、ネットの裏世界の奥深いところで広がっていることが海外の事例などをもとに報告されていた。マトリは「ネットの闇」も日々監視しているようだ。

類書には、これもBOOKウォッチで紹介した『麻取や、ガサじゃ!――麻薬Gメン最前線の記録』(清流出版)がある。こちらも著者は元マトリ。現場一筋だったGメンによるものだ。10年近く前の刊行だが、摘発の具体例が詳しい。

このほか、BOOKウォッチでは関連して、『主治医だけが知る権力者―― 病、ストレス、薬物依存と権力の闇』(原書房)、『ヒトラーとドラッグ――第三帝国における薬物依存』(白水社)、『阿片帝国日本と朝鮮人』(岩波書店)なども取り上げている。

  • 書名:マトリ
  • サブタイトル: 厚労省麻薬取締官
  • 監修・編集・著者名: 瀬戸晴海 著
  • 出版社名: 新潮社
  • 出版年月日: 2020年1月16日
  • 定価: 本体820円+税
  • 判型・ページ数: 新書判・272ページ
  • ISBN: 9784106108471

(BOOKウォッチ編集部)