「プレジデント」最新号に野村克也氏・最後のロングインタビュー

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2020年2月11日に亡くなった野村克也氏の最後のロングインタビューが、「プレジデント」(3月20号)に掲載されている。前号から始まった新連載「考えて野球せぃ」の2回目が残念ながら最終回となった。また特集「日本史学び直し」にも、「日本人よ、いい加減、明智光秀を許しなさい」と題して寄稿を寄せている。

写真は「プレジデント」(2020年3月20号)

「野村克也ラストメッセージ」は、「努力が大地の花と咲く。仕事はドラマだ、人生だ」と題して4ページ、さらに野球界へのメッセージが2ページ載っている。

貧乏だった幼少期を回想し、「劣等感の塊だった」。野球をさせてくれた二人の恩人として、大学に行くのをあきらめ、高校に入れてくれた兄と、南海のテストを受けに行く汽車賃を出してくれた野球部の部長を挙げている。

南海に入ったら、ブルペンキャッチャーとしての採用だった。ショックだったが、金もないので、ひたすらバットを振り練習した。キャッチャーとしてはボールの握り方も知らない素人だったという。

プロ3年目に転機がきた。1軍が優勝してハワイキャンプに帯同したのだ。レギュラーは「肩が痛い」と休み、2番手は遊び呆けていたので、ハワイチームとのオープン戦で起用された。レベルが低かったので大活躍。しかし、日本では打てなかった。

レギュラーになったのは4年目。しかし、お金が入って5年目、6年目はダメだった。そこから苦労して、10年目に52本の本塁打を打って新記録を作った。

克則は許してくれるだろうか

家族についても語っている。「克則には本当に辛い思いをさせてしまったと思う。何をやっても父親と比べられてしまって。おれはどうにかして克則を助けたかったけど、どうしたらいいかわからなかった。許してくれるだろうか」と語っている。母親のサッチーに似て、子供たちは足が遅かったという。

そして、選手としては駄目だったかもしれないが、コーチとしてはいいと。選手のどこを見るか、目を養い、「いいコーチになってくれ」と結んでいる。

一方、特集「日本史学び直し」には、同社から『野村克也、明智光秀を語る』を出版しているくらい、明智光秀に共感していたので、4ページにわたり、明智光秀について書いている。

「敗者は、私たちにとって人生の教科書である。勝者になれなかった光秀の人生から、私たちは多くのことを学べるだろう。そして、光秀から何かを学び、人生に役立てることができたなら、私たちは光秀を許してやってもいいのではないだろうか」と結んでいる。

野球以外にも歴史に詳しい一面があることを知り、さらに親近感を覚える人もいるに違いない。

(BOOKウォッチ編集部)