元東ドイツ首相、テレビで知ったベルリンの壁崩壊 「建設必要だった」思い変わらず 壁崩壊30年、東欧は今(3)

ベルリンの壁について振り返る元東ドイツ首相のハンス・モドロウ氏=2019年9月、ベルリン(共同)

 東欧革命のハイライトとなった1989年11月9日のドイツ・ベルリンの壁崩壊は誰もが予期しない突然の出来事だった。壁は東ドイツの社会主義政権にとって、自由社会の西ドイツに流出する自国民を止めるためのものだった。東ドイツ政権は28年にわたって壁に支えられてきたが、その指導部ですら崩壊の瞬間を把握していなかった。当時の東ドイツ政権幹部で、壁崩壊直後に東ドイツの首相に就任したハンス・モドロウ氏(92)はテレビを見て事態を知ったと振り返り、ベルリンの壁建設は「戦争を避けるために必要だった」と訴えた。(共同通信=森岡隆)

 ▽あの夜のこと

 私は11月8日に(東ドイツ指導部の)政治局員に選ばれ、9日は党中央委員会の会議に出ていた。この日の午後(政権トップの)クレンツ書記長が議場にやって来た。東ドイツ国民の出国に関する法案を携えており、その内容を説明した。国民は翌10日から警察署で西ドイツへの出国許可を受けることが可能になるというもので、10日午前4時に報道向けに公表される予定になっていた。

 政府のスポークスマンだったシャボフスキー政治局員はこの夜、記者会見を予定していたが議場におらず、法案の説明も聞いていなかった。シャボフスキーは午後6時ごろ、クレンツに会見での指示を仰ぎに行った。クレンツは法案の文書を渡し「これは重要な通達だ。世界の注目が集まるぞ」と言った。シャボフスキーは会見場に向かったが、法案を読んでいなかった。

ドイツ、ベルリンの壁

 ―記者会見したシャボフスキー氏は午後7時ごろ、国民の出国措置がいつから適用になるか記者に問われ「私の知るところでは即座に、遅滞なく」と答えた。この知らせを聞いた東の人々は状況を確かめようと東ベルリンにあった複数の国境検問所に押し寄せた。ゲートの先は西ドイツの飛び地の西ベルリンで、人波は増え続け膨大な数となった。検問所詰めの東ドイツ秘密警察将校らは不測の事態を恐れ、最終的に国境開放を決断。午後11時すぎから各検問所のゲートが次々と開き、ベルリンの壁は崩壊した―

 私を含む政権の全員はこの時、ずっと会議を続けており、誰も外の状況を把握していなかった。クレンツは記者会見の模様を知らず、シャボフスキーも会見が終わると間もなく帰宅した。シャボフスキーは自分が何を引き起こしたか、理解していなかっただろう。会議は夜遅くまで続き、私はその後、指導部の宿舎に歩いて向かった。

 道すがら若い男性と出会った。「国境が開いた。向こうに行きたい」と言われたが、何のことか全く分からなかった。宿舎に着いてテレビをつけ、何が起きているか知った。私は4日後の13日、首相に就任することになっており、首相の立場で考えなければならなかった。今や国境は開放された。あらゆる状況が一変し、首相として果たすべきと考えた事柄がもはや通用しないことを悟った。どうすれば良いのか、衝撃で言葉もなかった。

国境開放後、ベルリンの壁によじ登る東ドイツ市民=1989年11月10日(ロイター=共同)

 ▽壁建設の背景

 私は第2次大戦を体験した。故郷の町は爆撃され、知人の遺体を埋葬した。戦争末期、17歳でソ連軍の捕虜になり、ソ連で反ファシズム教育を受けた。捕虜生活は4年続いた。戦争の悲惨さは身をもって知っている。

 (ベルリンの壁がつくられた)61年は米ソ冷戦のまっただ中で、戦争か平和かという状況だった。もし壁がなければ戦争が起き、世界は今とは違う姿になっていただろう。この時につくられた新しい国境は私にとって重要なものだった。私の家族は当時西ドイツで暮らし、自分だけが東にいたが、西は私にとって敵国だった。東ドイツ国民の西ドイツへの出国が語られるが、出国者の数は実のところそれほど多くなかったのだ。

 だが、東ドイツはその後、経済システムでつまずいた。(80年代に)ソ連経済が次第に行き詰まり、最終的に全ての物事が失敗に終わった。(ベルリンの壁崩壊後)ソ連との軍事同盟も一層不安定になり、東ドイツ軍のある部隊ではストライキが起きた。国防相自身も職を辞めたいと考えていた。東ドイツだけでやっていくチャンスがないのは明らかだった。

 ―モドロウ氏は東ドイツ首相として西ドイツと統一を巡る協議を行い、90年4月退任した。早急な統一に慎重な立場だったが、東ドイツ国民の多くは早期統一を望んだ。同10月、西が東を編入する形で東西が統一し、41年に及んだ分断が終わった。だが、旧東ドイツ地域の経済状況は現在も旧西ドイツ地域に追い付かず、東では統一の恩恵から取り残されたとの思いも渦巻く―

 首相として私は東西二つのドイツが独立性を保ったままの国家連合構想を主張した。東ドイツを前に進めようと全力を尽くしたのだが。

 ただ、統一ドイツの国民になっても、自分の中でドイツ人だとの思いが揺らぐことはなかった。社会と折り合いを付けなければならず「敵国の人間」としてしばしば攻撃もされたが、連邦議会(下院)議員になり、政治活動を続けた。

東ドイツ市民が西側への出国を制限されていた「ベルリンの壁」=1989年11月6日、西ベルリン・クロイツベルク地区(ロイター=共同)

 ▽30年という時を経て

 今、ドイツの市民感情は東西で分断されている。例えば旧東ドイツの年金は西より少ない。こうした不公平感だ。経済情勢を巡っても、東が自立できないように仕向けられているのではとすら感じる。

 東の市民は統一のプロセスが始まってからずっと「自由を手に入れる」と言われてきた。だが、社会に不公平感がある限り、自由を手に入れたことにはならない。東では(難民排斥派の右派政党)「ドイツのための選択肢(AfD)」が成功を収めているが、東の人々が彼らに投票するのは特別なことではない。AfDが不公平感を抱えて生きてきた人々にうまく働き掛けているからだ。

 30年前のあの夜、東ドイツの政治家が関与することなく、現場の将校が上官からの命令を受ける前に国境を開けた。これは驚くべきことだ。さらには(現場が銃使用の命令を受けなかったからこそ)発砲も避けられた。なぜあの日、あのような形で国境が開いたのか。危険な状況に直面することなく、なぜあのようなことが可能だったのか、それを今日まで考え続けている。(終わり)

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