日本野球150年で起こった「試合中止」の憂き目 戦争、ストライキ、米騒動も…

日本野球150年で起こった試合中止は?

アマ、プロを含め野球界で起こった試合中止は?

 日本に野球が伝わったのは1871(明治4)年、来日したアメリカのお雇い外国人、ホーレス・ウィルソンが当時の東京開成学校予科(のちの第一高等学校、東京大学)の生徒に野球の手ほどきをしたのが最初だと言われる。日本野球の歴史はまもなく150年になるが、この間、様々な事件や社会情勢で、試合中止の憂き目にあってきた。

○両校の応援が過熱して19年も封印された早慶戦

 明治中期までは最初に野球の手ほどきを受けた第一高等学校が強く「一高時代」と言われたが、慶應大学が次第に力をつける。さらに東京専門学校と言われた早稲田大学がライバルとして急浮上、早稲田対慶應の試合は「早慶戦」と言われ、地元東京のみならず日本中の注目を集めた。

 最初の早慶戦は1903(明治36)年に行われたが、両校の応援はエスカレートし、1906(明治39)年には、両校の応援団が相手校の校門に押しかけて挑発するなど、一触即発の危険な状態になった。そこで両校は絶縁し、早慶戦は中止された。

 明治大や法政大、立教大が加わって大学野球リーグができても早稲田と慶應だけは試合をしない変則状態が長く続いた。1925年、東京帝国大学が加わって東京六大学が発足し、早慶戦は19年ぶりに再開された。

米騒動、太平洋戦争でアマ野球は中止に

○「米騒動」で中等学校野球の全国大会が中止

 1915(大正4)年には、今の高校野球甲子園大会の前身である全国中等学校優勝野球大会が始まった。大阪朝日新聞社の発案で始まったこの大会は、第1回から大観衆が押し寄せる人気大会となり、野球の全国的な普及につながった。

 しかし、1918(大正7)年7月、富山県でコメの価格高騰に抗議する人々が米問屋や資産家の家を襲う暴動が発生。「米騒動」と言われたこの暴動は、全国に波及した。それでも第5回全国中等学校優勝野球大会は、通常通り開催するとして、8月9日には14の代表校を選出。13日には、当時の開催球場だった鳴尾球場に選手、関係者が集まって組み合わせ抽選会が行われた。

 しかし、その前日に兵庫県にあった大手商社の鈴木商店が焼き討ちで全焼。暴徒は選手の宿舎付近まで押し寄せたので、主催者の大阪朝日新聞社は、翌14日に「社告」で、大会の中止を告知。16日に正式に中止となった。

○太平洋戦争勃発で中等学校野球、大学野球そのものが中止

 甲子園球場で行われるようになった中等学校野球大会は、全国的な人気を集める国民的なスポーツ大会になっていた。しかし1941(昭和16)年の第27回大会は、国際情勢が悪化し、政府、軍部が「不要不急の一般人の県をまたいだ移動」を禁止したため、地方大会が次々と禁止。代替的に「県大会」を実施した県もあったが甲子園での大会は中止になった。

 この年12月8日には太平洋戦争が始まった。主催者の大阪朝日新聞社は翌1942(昭和17)年「中等学校野球大会」そのものの終了を宣言。この年7月には文部省の主催で「全国中等学校錬成野球大会」が行われ、全国から16の代表校が甲子園に集まり、徳島商(徳島)が優勝したが、この大会は甲子園の歴史からは除外されている。軍部の管理下にあったため「打者は兵士になるのだからボールを恐れるな」と通達があり「死球」のない特別ルールだった。

 これを最後に、中等学校野球は終戦翌年の1946(昭和21)年まで行われなくなった。戦前、全国的な人気となっていた東京六大学も1943(昭和18)年4月28日、主催する東京大学野球連盟が解散し、終焉を迎えた。以後、大学の代表的な野球選手も学徒動員で戦地に赴くこととなった。

球界再編問題ではストライキを決行、140試合予定も138試合でシーズンを終える

○戦争で職業野球も中断

 現在のプロ野球の前身である職業野球は1936年にスタートしたが、1944(昭和19)年11月に、翌年のペナントレースを行わないことを決定。しかし、関西地区は軍部の規制が緩かったこともあり、1945(昭和20)年1月1日に西宮球場に阪神軍、産業軍、朝日軍、阪急軍が集結し「日本野球報国会正月大会」が行われた。初代ミスタータイガースの藤村冨美男など、兵役を免れた選手によって大会が行われたが、1月5日に終了。これが戦前最後の野球大会となった。

 8月15日の終戦直後、日本に上陸した進駐軍は「日米でともに人気がある野球を今後の日本統治に活用する」という方針を打ち出した。占領軍の承認を得て、11月23日には日本職業野球連盟復興記念東西対抗戦が開催され、藤村冨美男や千葉茂などが出場。この試合では、戦前は明治大学の選手だった大下弘が大活躍をして注目を浴びた。太平洋戦争による中断は10か月余りだった。

○戦後プロ野球の公式戦の中止は1回だけ

 戦後、プロ野球の公式戦が、社会情勢や自然災害などで中止になった事例はただ1つ。2004年のプロ野球では「球界再編問題」が起こり古田敦也選手会会長は9月18、19日に予定されていた12試合の公式戦でストライキを決行。パ・リーグのプレーオフの日程が10月1日に迫っていたために再試合は行われず、12球団は140試合の予定が138試合でシーズンを終了した。

 2011年3月11日に起こった東日本大震災では、プロ野球は3月25日の開幕戦を4月12日に延期。この年の日本シリーズは11月12日からとなった。しかし公式戦もポストシーズンも中止することはなかった。

 そして、新型コロナウイルスの影響で開催可否に注目が集まっていた今春の選抜高校野球大会は史上初の中止が決定。NPBも3月20日に予定していたシーズン開幕を延期することを決定している。公式戦143試合は何とか実施したいという意向を示したが、東京オリンピックによる中断も予定されており、予断を許さない。日本野球は、150年の歴史で、何度もピンチを乗り越えてきた。日本を元気づけるために、今回も危難を乗り越えてほしい。(広尾晃 / Koh Hiroo)

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