日本サッカーの黄金世代とは?時代を彩った天才たち

ある特定の時期に才能に溢れた選手が多く輩出されるというのは、スポーツの世界ではよくあることです。日本サッカーにおいては、1979年前後に生まれた世代が黄金世代と呼ばれます。この世代の選手たちは日本代表としてはもちろんのこと、個人としても多くの成果を残しました、そこで今回は、黄金世代が残した実績と、代表的な選手たちについて詳しく解説します。

黄金世代時代の日本代表

日本サッカーにおいて黄金世代とは、1979年前後に生まれた選手たちのことを指します。「79年組」と呼ばれることも多いです。この世代が最初に注目を集めたのは、1994年にカタールで開催されたU-16アジアユース選手権でした。小野伸二、稲本潤一、高原直泰らを中心としたチームはこの大会で見事優勝し、日本サッカーの歴史上初となる自力での世界選手権出場を果たしたのです。その後、1999年にはA代表の監督も務めていたフィリップ・トルシエ監督指揮の元でワールドユース選手権ナイジェリア大会に出場。遠藤保仁や小笠原満男らを新たに加えたチームはこの大会で準優勝を成し遂げたのでした。

黄金世代の多くは2000年のオリンピック代表にも選ばれ、2歳年上の中田英寿や宮本恒靖、1歳年上の中村俊輔らを要したチームはシドニーオリンピックでグループリーグを突破、ベスト8の成績を残します。その2年後となる2002年日韓ワールドカップでも多くのメンバーが中心的存在となり、稲本潤一がゴールを決めるなど大活躍しました。そうして日韓ワールドカップではグループリーグを突破し、日本サッカー史上初となるベスト16へと導いたのです。

黄金世代を代表する天才!小野伸二

黄金世代を代表する選手として誰からもまず名前を挙げられるのは小野伸二です。小野伸二は1979年9月27日、静岡県沼津市で生まれました。小学生時代からその才能は注目を集めており、1993年に13歳の若さでU-16日本代表に選出されます。その後1998年のアジアユース選手権ではMVPを獲得、わずか18歳でA代表にも選出されます。また、同年に浦和レッズと契約して公式戦にデビュー、新人王とJリーグベストイレブンを受賞しました。2000年のシドニーオリンピックには怪我が元となるコンディション不良のために出場できなかったものの、翌年のFIFAコンフェデレーションズカップ2001には日本代表として出場、準優勝に大きく貢献します。

そうした活躍が高く評価され、小野伸二は2002年にオランダの名門チームであるフェイエノールトへ移籍しました。フェイエノールトではUEFAカップに出場し、優勝を果たします。フェイエノールトには5年間在籍し、UEFA主催のサッカー大会に合計7回出場しました。これは2019年現在で日本人の最多記録となっています。小野は「ボールと会話できる」と呼ばれるほど、天才的なボール捌きの技術に定評がある選手です。その高いテクニックから繰り出されるパスは受け手に優しいことから「エンジェルパス」と称されています。

海外5リーグで活躍!稲本潤一

稲本潤一は1979年9月18日、鹿児島県で生まれました。その後大阪府堺市で育ち、小学校の頃からサッカーを始めます。この頃からガンバ大阪ジュニアユースに所属、1997年にはトップチームに昇格してJリーグの試合に初出場しました。17歳6カ月でのデビューは当時最年少の記録です。1999年にはワールドユースの代表選手に選ばれ主力選手となり、以降A代表でも中心的存在となっていきました。そうして2001年にはガンバ大阪からイギリスの名門クラブであるアーセナルFCへレンタル移籍、2002年には日韓ワールドカップにも日本代表メンバーとして出場します。グループリーグ2戦目となるロシア戦では決勝点となるゴールを決め、日本のワールドカップ初勝利に大きく貢献しました。

ワールドカップ後には出場機会を求めてアーセナルからフラムFCへ移籍、インタートトカップ決勝のボローニャFCではヨーロッパでの日本人選手初となるハットトリックを達成しました。2006年にも日本代表に選ばれてドイツワールドカップへ出場、同年にはトルコのガラタサライSKへ移籍します。その後もドイツのブンデスリーガやフランスの1部リーグなど合計五カ国のリーグで活躍しました。身体能力が高く、中盤の底からボールを奪取する能力に優れた選手として知られています。

国際Aマッチ出場数最多!遠藤保仁

遠藤保仁は鹿児島県鹿児島市出身、誕生日は1980年1月28日です。サッカー強豪校である鹿児島実業高校に入学、2年生の頃には高校選手権の大会最優秀選手に選ばれます。高校卒業後は横浜フリューゲルスに加入、プロデビューを果たしました。しかしチームの消滅を受けて京都パープルサンガへ移籍、2000年にチームがJ2へ降格したためガンバ大阪に移籍します。ガンバ大阪ではチームの中心的存在として活躍、2003年にはチームを初となるリーグ優勝へと導きました。同時期からA代表にも選出され、スターティングメンバーとして多くの試合に出場します。そうして黄金世代が活躍した1990年代後半から2000年代初頭だけでなく、2010年代後半まで日本代表のキープレイヤーとして活躍しました。

遠藤はユース代表ではスターティングメンバーに選ばれていたものの、A代表では最初はあまり出場機会がなかった選手でした。2002年の日韓ワールドカップでも代表には選ばれず、初召集されたのは日韓ワールドカップ後のことです。しかし、それ以降は日本代表におけるレギュラーの座を勝ち取り、2006年のドイツワールドカップや2010年の南アフリカワールドカップ、2014年のブラジルワールドカップと3大会連続でチームの柱となる働きをしました。

黄金世代を代表するストライカー!高原直泰

"高原直泰は1979年6月4日生まれ、静岡県三島市出身の選手です。ユース世代からその世代の日本代表に選ばれ、1999年のFIFAワールドユース選手権では3得点を挙げて準優勝に貢献しました。また、2000年のシドニーオリンピックでも3得点を挙げる活躍をしています。プロ選手としては高校卒業後にジュビロ磐田に加入、開幕戦に途中出場して初得点を決めたことで話題となりました。その後、2001年にはアルゼンチンの名門クラブであるボカ・ジュニアーズへ移籍、2003年にはドイツ・ブンデスリーガのハンブルガーSVへ移籍します。2004-2005シーズンにはチームのFW中最多となる7得点の活躍をしました。

2006年にはHSVからアイントラハト・フランクフルトへ移籍、2008年には浦和レッズに加入してJリーグへ復帰します。その後は清水エスパルスや東京ヴェルディなどさまざまなチームで活躍し、2016年には社会人リーグに沖縄SVを自ら創設、チームの代表兼監督兼選手を務めています。"

海外で活躍した黄金世代の選手たち

黄金世代の選手たちは、日本代表としてさまざまな実績を残しました。それだけでなく、選手個人としてもJリーグはもちろんのこと、海外のリーグで活躍したことがその特徴として挙げられます。彼らの中には既に現役を引退し、クラブの経営に携わる者や指導者として新たな歩みを始めている者も多くいます。日本サッカー界はかつての黄金世代の選手たちの活躍に、これからも目が離せないでしょう。

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