『歌舞伎座の怪紳士』近藤史恵著 謎解きではなく人生についての1冊

 物語は、3つの柱から成る。「久澄」という名の主人公が、祖母からたびたび送られてくるチケットを握りしめ、観劇にどんどんハマっていく過程。劇場を訪れるたびに、何らかのトラブルに巻き込まれて、それを彼女が鮮やかに解決していく過程。そして、無職でニートな彼女が、自分の人生について前向きになっていく過程だ。

 タイトルロールである「歌舞伎座の怪紳士」は、2つめの過程にいつも登場する。堀口と名乗るその男は、久澄が芝居を観に行くたびに、なぜか必ず近くに居合わせる。芝居は歌舞伎に限らない。オペラを観に行ったときにもその男はいて、いつだって何らかのトラブルに巻き込まれている久澄を、いつだって助けてくれる。久澄の「毎回巻き込まれっぷり」と、堀口の「毎回そこに居合わせっぷり」は、刑事ドラマにありがちな「行く先々で事件に巻き込まれる不思議」そのものであり、ある種のファンタジーとして読み進めなければいけないことは重々わかる。

 けれど、どうも、そっち岸に渡りきれないなにかがこの本にはある。それは、3つめの過程だ。働いていた会社でセクハラを受け、社会生活そのものが恐ろしくなって、パニック障害を抱え、自宅で、多忙なキャリアウーマンである母親のもとで家事に勤しむ久澄。その生活に自分でOKを出せればいいのだけれど、どうしても、そうすることができない。自分の人生にダメ出ししながら、孤独と、貧困と、自己卑下に埋もれていく彼女の心理描写が、とても細やかでリアルなのだ。たとえニートじゃなくても、多くの読み手が、思い当たるふしがあるであろうレベルで。

 印象的なシーンがある。アパレル会社に勤め、おしゃれな服を着て、ネイルもばっちり整えて、彼氏とのデートを控えた高校時代の友人が、久澄にこう言い放つのだ。

「恋は? 仕事は? 夢は? 久澄はちゃんと自分の人生に向き合ってるの?」

 価値のある人生と、そうでない人生があるのだという価値観に、私たちは侵されながら生きている。「充実した人生」とやらを生きるために、恋や仕事や夢が必須条件なのだと信じて疑わない。じゃあ、それらがない人生には、価値がないのか。私の人生は、そんなにも虚しいものなのか——その問いに対して久澄は、終盤、久澄の答えを出すのだ。

 物語を締めくくるのは、「歌舞伎座の怪紳士」の正体と真相だ。そして登場人物たちが、一歩、前に進む。この本は謎解きを楽しむための1冊ではない。不器用だけれど、人生にがっぷり四つで取り組む者へのエールである。

(徳間書店 1600円+税)=小川志津子

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