【中原中也 詩の栞】 No.12 「早春散歩」(生前未発表詩)

空は晴れてても、建物には蔭があるよ、
春、早春は心なびかせ、
それがまるで薄絹ででもあるやうに
ハンケチででもあるやうに
我等の心を引千切り
きれぎれにして風に散らせる  

私はもう、まるで過去がなかつたかのやうに
少くとも通つてゐる人達の手前さうであるかの如くに感じ、
風の中を吹き過ぎる
異国人のやうな眼眸をして、
確固たるものの如く、
また隙間風にも消え去るものの如く

さうしてこの淋しい心を抱いて、
今年もまた春を迎へるものであることを
ゆるやかにも、茲に春は立返つたのであることを
土の上の日射しをみながらつめたい風に吹かれながら
土手の上を歩きながら、遠くの空を見やりながら
僕は思ふ、思ふことにも慣れきつて僕は思ふ……

【ひとことコラム】明るい早春の情景の中でふと胸の内に芽生える淋しさが冒頭の一行に凝縮されています。自分らしく生きることの誇りと孤独とを抱えて、詩人は街を歩いていきます。緩やかな歩行のリズムと詩の行を追う目の動きとが共鳴して、同じ思いが読者の胸の内にも広がってきます。

中原中也記念館館長 中原 豊

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