「ひとく」の春を

 昔の人は、鳥や虫の鳴き声を言葉として聞いた。例えば、コオロギの一種は「綴(つづ)れ刺せ」、つまり「衣のほころびを直しておきなさい」と人に語り掛け、春にはウグイスが「ひとく」と鳴いたらしい▲ホーホケキョの「ホケキョ」がそう聞こえたのだろう。漢字を当てれば「人来(ひとく)」で「人が来る」と告げている。平安の昔、ウグイスが「ひとく、ひとく」とさえずる歌も詠まれた▲その初鳴きの便りが届く頃になった。気象庁によれば、2月の半ばに鳴いた所もあれば、まだ聞かれない所もある。長崎は3月4日だった。こちらで一つ、遠く離れたあちらで一つと、鳴き声がぽつぽつ広がっている▲社会全体に耳を澄ませば、一向に「ひとく、ひとく」の声が響かない。数々のイベントの類いが中止になり、スポーツの大会も取りやめか、延期か、無観客試合になって、人が来ない▲無観客だった大相撲春場所の千秋楽は、白鵬が鶴竜との相星決戦を制して優勝した。記憶に残る大相撲の名勝負ならばいくつかあるが、この春場所は何よりも、決戦の場の静けさが忘れがたい▲もうじき就職、転勤、進学、入学の頃で、人と人との出会いが最も盛んな季節も近い。ウイルス禍に出口が見えて、すがすがしい「人来」の日を迎えられるようにと、こんなにも願う春はほかにない。(徹)

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