一畳間に消えた命 娘の死映した監視カメラ 寝屋川監禁死事件公判の記録(1)

亡くなった柿元愛里さん(小学校の卒業アルバムから)

 口と目は開いたままで歯はぼろぼろ、膝は折れ曲がり、体はアカがびっしりで骨が浮き出た状態だった。大阪府寝屋川市で2017年12月、自宅のプレハブに長女柿元愛里さん=当時(33)=を閉じ込め、衰弱死させたとして、監禁と保護責任者遺棄致死の罪に問われた父親の泰孝被告(57)と母親の由加里被告(55)の裁判員裁判の判決が20年3月12日に大阪地裁(野口卓志裁判長)であり、2人に求刑通り懲役13年が言い渡された。

 10年超に及んだ畳1枚分のスペースでの過酷な生活は、精神疾患の身内を家族が抱え込む現代版「私宅監置」とも言える衝撃的な事件だった。監視カメラはその様子を静かに記録していた。親から疎外され、社会から隔絶され、救いの手もなく死を待つほかなかった人生には言葉を失うしかない。公判で明らかになった、愛里さんの無念の死に至るまでの記録を3回に分けてレポートする。

 ▽涙浮かべ「ひとりよがりだった」

 11日間にわたった審理では、監禁か療養かを巡って激しく争われた。父母は「愛里は一度も部屋から出たいと言ったことも、出ようとしたこともない。死ぬとも思っていなかった」と無罪を主張した。愛里さんが暴れたり、外の刺激を嫌がったりするため、症状を安定させるために用意した生活空間だったと強調する。ただ3月4日の最終意見陳述では「今思えば、もっと病院とか福祉とか駆け回ればよかった」(父)「私たちは一生懸命に試行錯誤してきたが、ひとりよがりだった」(母)と涙を浮かべて後悔の言葉を口にした。

 判決は「自由を奪い、社会から隔絶して心身の健全な成長を阻害した。人間としての最低限の尊厳をも否定する非人道的な行為で、精神障害者の治療に思い悩む通常の家族の場合とは質的に異なっていると言うべき」と断罪した。

 裁判員を務めた人たちは無念さをにじませた。判決後の記者会見に応じた男性は「厳しい環境で10年以上過ごされた方。救いになるようなことがあればと探しながら(公判を)見てきたが、最後まで見つけることができなかった」と話した。別の裁判員の女性は「公的な機関が1回でも立ち入って『どうですか?』と本人の姿を確認していれば防げたのでは」と振り返った。

法廷での父親の泰孝被告(57)と母親の由加里被告(55)=イラスト・坂井雅恵

 ▽真冬に全裸、極端にやせ細り…

 ひっきりなしに車が行き交う府道の脇にある一軒家。よく見ると、いくつも監視カメラが取り付けられた古びた住宅には異様な雰囲気が漂っていた。2017年12月23日、愛里さんは母屋の脇にあるプレハブ内につくられた畳1枚ほどのスペースに遺体で見つかった。服は着ておらず、極端にやせ細っていた。近くにあったのは簡易トイレと、部屋の外に置かれた大型のペットボトルにつながった水飲み用のチューブのみ。死亡時の身長は145センチ、体重は19キロ。肥満度を示す体格指数(BMI)は9だった。証人として出廷した摂食障害の専門医は「緊急入院が必要とされるBMI=12をさらに下回っていた」と証言。解剖医は死因を、低栄養と寒冷環境にさらされたことによる凍死と診断した。

 5日前の12月18日午前8時過ぎ、父母は一畳間を映す監視カメラの映像をモニターで見て、異変に気づく。愛里さんの食事が残っていたからだ。父は「いつも完食するのでおかしいと思った」。狭い入り口をくぐって一人ずつ一畳間に入り、愛里さんが亡くなっていることを確認したが、即座に110番や119番はしなかった。母は「そばにいたかった。通報すると連れて行かれると思った」と理由を話した。

 警察に自首するまでの間、父母は愛里さんの遺体を風呂に入れたといい、水飲みチューブを取り換えたり、汚物のついたカーペットを洗ったり、部屋にアロマをまいたりした。母は「(生前は)愛里が気を使うのでできなかった。全部やってあげたかったことだから」と説明したが、死後の行動の映像は削除されており、警察が捜査の過程で復元した。

監禁されていたプレハブのあった大阪府寝屋川市の自宅

 ▽24時間鳴り響いたクラシック音楽

 映像を映すモニターは母屋の居間や寝室などに取り付けられ、どこにいても見られるようになっていた。外出時や就寝時には録画をして確認していたようだ。愛里さんの姿を収めた映像は、亡くなる17年12月まで計380時間分あった。公判では検察と弁護側双方がそれぞれの主張に合わせた部分を抽出した映像を流しながら、亡くなるまでの経緯や愛里さんの状態を明らかにしていった。傍聴席から見える大型画面には映されなかったが、裁判員がモニターを見つめる間、プレハブで四六時中かけっぱなしだったクラシック音楽が響いていた。ところどころ生活音が確認されたが、会話などのやりとりは皆無だった。

 窓もなく、外からの情報を一切遮断した昼夜の区別もつかない一畳間での生活。だが父母はこの生活は愛里さんのためで、愛里さんが望んだ最終形だったと繰り返し主張した。

 ▽「愛里と一緒だと息が詰まる」

 自宅敷地内にプレハブが建ったのは寝屋川市に転居した1995年、愛里さんは10歳だった。父は、5歳下の妹に気を使って眠れない様子の愛里さんのために一人部屋を用意したという。愛里さんは喜んだらしい。母屋には空き部屋があったが、「(3人と一緒の生活空間だと)音が響くので愛里が嫌がった」と答えた。一方、取り調べ段階では「愛里と離れている方がぼくらにとっても気が楽。一緒にいたら息が詰まる」と供述していた。

 次第に学校に行かなくなり、ほとんどの時間をプレハブで過ごすようになった愛里さん。15歳の頃、下を向いたままだったり、よだれを垂らしたりするおかしな行動が目立ち出した。「一緒に行動しなければ」と父は危機感を持ち、再び母屋で一緒に生活させるため妹の隣の部屋を与えたが、やはり愛里さんは落ち着かず、別の場所に好んで居つくようになった。母屋の外にある大型犬用の「乗り台」(高さ約60センチ)の上。父は乗り台に囲いを作って、部屋のようにした。

 ところが数カ月後には別の〝部屋〟を用意した。乗り台の上から愛里さんがわざと後ろ向きに頭から落ちたり、裸のまま敷地外の道路に出たりすることがあったから、という。今度は厚みのあるコンクリートパネルで囲われた細長い場所で、公判では「コンパネ部屋」と呼ばれた。ポータブルトイレもあり、生活はほぼこの空間で済んでしまう仕組みだ。この時の様子を撮影した映像で確認できたラジオ音声から、愛里さんが17歳の時(2002年)と特定された。

 この頃の映像には、父の帰宅に気付いた愛里さんが呼び掛ける様子も記録されている。「お父ちゃーん、ごはんいる!」「『吾輩(は猫である)』読みたい」。愛里さんと父との会話のやりとりがうかがえるのは、この場面が最後だ。

 当初コンパネ部屋に置いていたのはトイレットペーパーや飲み物の入ったペットボトル、着替え、毛布など。だが、排泄物の入ったポータブルトイレのバケツを持ち上げたり、服を引きちぎったりと「危ないことをするので、次第に何も置かなくなった」(父)という。

 ▽命の危険「全く感じなかった」

 父母によるとコンパネ部屋にいたのは数か月ほどで、愛里さんはまもなくして事件現場となったプレハブ内の一畳間に移った。2002年の冬だ。コンパネ部屋には暖房がなかったための措置だった。プレハブを改造し、ハロゲンヒーターを設置。設定した温度になるとサーモスタットのセンサーが反応し、愛里さんがいるスペースが温まるようにした。

 父母は、一畳間は適切に温度調整されていた、と話した。夏はクーラーが作動し26度、冬は例年15度程度に設定していたという。愛里さんは衣服を嫌がったため、ここで一年中、裸で過ごした。母によると愛里さんは「暑さも寒さも感じていなかった」らしい。父は「小さい頃から暑がりで、低い温度を好んでいた」と話した。

 一畳間の出入り口は内と外とで二重扉になっていた。いずれも施錠できる構造になっており、検察官は監禁目的だったと追及したが、父母は「断熱と防音のためだった」と反論した。亡くなる1カ月ほど前に、父母はなぜか設定温度を10度に下げて、毛布を1枚から2枚に増やしている。映像には毛布をかぶる愛里さんの姿も映るが、父母は「寒がっていたのではなく、人の気配から隠れるため」「何かをかぶるのは愛里の特徴」と述べた。トイレに向かう動作が緩慢になっていった変化も「生存に関わる危険があるとは全く思わなかった」と強調した。

柿元愛里さんの遺体が見つかった住宅=大阪府寝屋川市(共同通信社ヘリから)

 ▽ぼろぼろの歯、死後まで気づかず

 父母によると、愛里さんは小さい頃から食べることへの執着があり、食事のことばかり考えて過ごしていたという。食べ過ぎで「おなかが苦しい」と訴えることもあり、コンパネ部屋からは1日1食しか与えていなかった。食事を差し入れる時間もまちまち。父母は「夜に入れたら次の日の夕方に下げる感じ。愛里はすぐに食べ終わったり、じらして時間をかけて食べたり。食べ残しは一度もなかった」と振り返った。

 使い捨てのプラスチック容器に入れた白米の上に、小さくしたおかずや菓子などを一緒に乗せ、コーヒーやジュースなどの飲み物類もその上からかけて出していた。薬も混ぜた。なぜ器が一つだけなのか。母は「一緒にするのを愛里が好むから」と答えた。亡くなる1年程前から、愛里さんが急に痩せてきたことに気付き、食事を1日2食に増やしたこともあったという。だが父母は、食べるのに時間がかかって、寝る時間がなくなってしまうなどの理由で1カ月後には元の1食に戻した。

 愛里さんの身の回りの世話はどうしていたのか。部屋の掃除や風呂代わりに体を拭くなどの行為について、父母は具体的な回数や頻度を明確に答えられなかった。ただ母は「2週間を超えないように心がけていた」と話す。2カ月に1度あったという愛里さんの生理については「愛里は生理用品を嫌がって脱いでしまうので、吸水シートを敷いて汚れないようにしていた」と具体的に述べた。映像には一畳間に敷いたカーペットに汚物が付いたような黒い染みも確認できるが、モニター越しに見ていた当時は染みには気づかなかったという。

 愛里さんの歯はケアされておらず、何本か抜け落ちていた。母は亡くなる半年前まで「2週間に1度、愛里と向き合って歯を磨いていた」。だがその後、忙しくなり、愛里さんに自分で歯磨きをさせて口をゆすぐのだけ手伝ったという。ただ忙しくなった理由は答えられず、ぼろぼろだった歯の状態も亡くなるまで気づかなかったという。

 映像には、父母が愛里さんをこまめに世話する様子は記録されておらず、残っていたのは父母が扉を開けて無言で食事の器をすっと出し入れする場面ばかりだった。父母と愛里さんとの人間的な関わりを示すような場面も一切なかった。

 柿元家では当時、カメやタニシを飼っていた。飼育日誌を付け、エサやりの時間や水温、pHなどを記録していた。日誌の中には所々に「愛」の文字も見られる。母は「日誌はカメのことを書くために買ったが、ときどき愛里の部屋に入った時間やご飯をあげた時間も書いた」。だが「愛」の文字が登場するのは亡くなる半月前までで、日誌自体も愛里さんが亡くなった日に終わっていた。(続く、共同通信=石澤芙蓉子)

幼少期から愛情抱けず「あきらめて」 心折れた母 寝屋川監禁死事件、公判の記録(2)

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精神科受診も、プレハブ生活への流れ止められず… 寝屋川監禁死事件、公判の記録(3)

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