堀潤(「わたしは分断を許さない」監督)-なぜここまで、誰がこの分断を生んだのか? 報道人・堀潤が世界各地の孤立させられた人達に出会い、寄り添い、伝える、最新ドキュメンタリー映画

「忘却」から「分断」へ

──2013年に発表した自主映画「変身- Metamorphosis」から7年が経ちましたが、いままた映画を撮ろうと思った動機をお聞かせ下さい。

堀潤:1作目のテーマは「忘却」でした。震災からまだ2、3年しか経ってないのに、社会の課題が次々と別の現場に移っていって、過去の事故の検証さえきちんとされないまま、次の選択をしようとしている。その現状を描いたのが前作だったんですが、あの時感じていた「忘却」は、時間が経つにつれて「分断」に変わったことを感じました。忘却は事実を知っていて忘れることですが、分断は事実さえ知らず、そこに問題があることさえ気づかない。10年近く被災地を訪れていますが、そこで感じる温度差はどんどん大きくなっている。2020年の東京オリンピックは「復興五輪」だって言うけれど、それは名ばかりじゃないかという気持ちがあります。もちろん復興に向けてたいへんな努力を重ね、その結果、見事に復興を遂げた地域もある。その一方で、いくら現状を訴えても「なかった」ことにされている人達もいる。そうした小さな声を伝えたいという思いで、今回この映画を作りました。個人の力ではどうにもならない大きなシステムの中で孤立させられている現場があちこちにあり、それらひとつひとつを俯瞰して並べてみることで見えてくるものがあるんじゃないかと。それで今作では、国内だけでなく海外の現場も取材して1つの作品にすることにしました。

──堀さんが「分断」という言葉を最初に意識したのは、「生業を返せ、地域を返せ!福島県原発訴訟」(以下「生業訴訟」)の原告団への取材がきっかけだったそうですね。

堀潤:生業訴訟は地裁の段階からずっと傍聴と取材を続けてきたので、当初はそれだけで一本撮ろうと思っていました。裁判を傍聴していると、原告の住民の方たちが意見陳述を20分から30分程されるのですが、それぞれの原告が自分の人生のすべてを語り尽くすんです。それがどれも胸に迫るもので、時には裁判官すらも心を揺さぶられるような証言がたくさんある。これは是非もっと多くの人に知って欲しいと思い、劇場の人や配給の人に相談した所、是非やりましょうと。その一方で「いま、震災とか原発の映画はお客さんが来ない」とも言われてしまって。でも、それはテレビの現場も同じなので、最初からわかっていました。じゃあ、僕たちの足下で起きていることをちゃんと見てもらうにはどうしたらいいのかを考えた時、福島で起きていること、沖縄で起きていることは、他の様々な場所からも辿り着けるテーマで、それこそが、いま至るところで起きている「分断」なのではないか? 私が知らない所で、どれだけ分断が深くなってしまっているのか? その視点で世界中を見渡すことで、逆に、福島で被災された当事者たちの思いに共感できるような作品が作れるんじゃないかと思ったんです。「ああ、原発の話でしょ」とか「ああ、沖縄の基地の話ね。だいたい知ってるよ」と簡単に流されてしまうような話ではなく、100人いれば100通りの状況があるということを表現したかった。

──確かに、それぞれの問題はつながってますよね。映画の中で、生業訴訟をしていた久保田さんが、移住先の沖縄で基地反対に関わるようになったのは象徴的だと思いました。

堀潤:原発事故が起こって、沖縄に自主避難した久保田さんは、事故前は「反対する人はなんでも反対したい人だと思っていた」と告白しています。でも彼女は、そこに何か理由があるんじゃないかと思って、実際に抗議の現場に足を運ぶようになった。彼女のそういった経過を取材で追っていたので、僕自身もすごく発見がありました。

──一方、原発から20キロ圏内の富岡町から強制避難した深谷さんは、同じ生業訴訟の原告でも久保田さんとはかなり事情が異なりますよね。

堀潤:生業訴訟が掲げる大きなテーマが「分断の解消」なんです。原発事故後、警戒区域、計画的避難区域など、国が線引きをした。あなたは避難すべきだ、あなたは避難しなくてもいいと。事故を起こした側が被災地を区分したことで、残念なことに自主避難者という言葉が生まれ、社会から「あなたたちは勝手に避難したんでしょ」と言われてしまった。それこそが分断の象徴ですよね。

──深谷さんが「賠償金が妬み、そねみの原因だった。お金なんからいらないから元に戻して欲しい」と訴えていますが、被災者が賠償金のことであれこれ言われるのは、見ていて本当に悲しくなります。

堀潤:本来、避難された方はどんな状況であれ事故の被害者なのに、それを「あなたは賠償の対象です」「あなたは対象外です」と分類されてしまうのはどうなんだと思うし、生業訴訟はそれこそが大きなテーマだったので、必然的に分断という言葉がキーワードになるんです。法廷の戦略とか見ていると、国側の弁護士は法廷の場で深谷さんに対して「あなたは賠償金をいくらもらってますか?」という質問をわざわざするんです。そうすると原告側の中で「ああ、深谷さんはそれだけもらってるんだ」ってなりますよね。それは明らかに国側の分断工作なんです。本当にひどいなと思うんですが、そういうのは法廷の外にはなかなか伝わらないですよね。

大きすぎる主語には注意が必要

──巨大なシステムから疎外されている人々を描いたこの映画で、堀さんは「真実を見極めるためには、主語を小さくする必要がある」と仰ってます。

堀潤:ここ数年、ますます大きな主語が跋扈していると感じています。物事は時間と距離が離れれば離れるほどぼんやりしたイメージで語られますが、そこではより大きな主語ほど力を持つ。トランプ現象もそうで、「不法移民」という主語の中にすべての問題が回収されていってしまう。「そうだ、不法移民が増えて、俺達の仕事が奪われている」という単純な図式が実際に政治を動かしている。日本で難民をまるで犯罪者のように扱う東京入管の問題も同じですよね。物事を俯瞰して見ることはもちろん大切ですが、一つの見方しかない社会というのは非常に危ういし、逆に統治する側には都合がいい。

──そこに警鐘を鳴らすのがメディアの役割ですが、メディアはそうした役割を果たしているのでしょうか?

堀潤:メディアの問題はすごく大きくて、例えば東京から全国に発信しているメディアと、地域で現場を毎日伝えているメディアとでは全然違うものになる。映画の中で、元ラジオ福島の大和田さんが浪江町の小学校に捨てられていた傘を見て、これは在京局の有名な番組のクルーが捨ててったものだと言うシーンがありますが、それこそ丹念に事実を拾い集めている大和田さんだから傘の意味を伝えることができる。僕みたいにちょっと浪江に来て、ぽっと撮って帰ってしまう記者にはとうていわからない事です。

──主語を小さくするのって、結局一人一人に向き合うことだと思いますが、それは非常に困難な作業ですよね。例えば、辺野古では沖縄の人達が基地建設反対で毎日座り込みをしているけど、記者として毎日取材することには限界があります。

堀潤:そうですね。僕がNHKに所属してた時は特にそう感じてました。ニュース番組は「これは非常に大きな問題ですね。はい、次はスポーツです」という世界でしたから。NHKを辞めたいまは自由に取材できるようになりましたが、それでも全部の現場に行くことはできない。それで市民メディアを作りたいと思ったんです。各現場で毎日問題を追い続けている人達の受け皿になって、それをメディアとしてちゃんと伝える。そして長いスパンで関わっていく。なぜなら、ある程度時間が経ってみないとわからないことがたくさんあるからです。いまを伝えることも大切ですが、その価値をいま決めることはやはり恐い。だから関わり続けることの大切さを感じてます。僕はそれをNGOの人達から教えてもらった。NGOの職員は、たとえ世間が注目していなくても、10年、20年とその現場で活動を続けている。そういう姿勢を僕はメディアで体現していきたいし、映画にもそういうメッセージを込めたつもりです。

──監督は、この映画を撮った動機として「震災の記憶が、2020 年というオリンピック・パラリンピックイヤーの大きな波に、上書きされてしまうのではないかという強い危機感を抱いた」からだとも書いてますね。

堀潤:僕は「オリパラ無罪」と呼んでるんですが、なんでもかんでもオリパラと言えばすべて許されると思ったら大間違いだぞと思ってます(笑)。もちろんオリンピック・パラリンピックという機会が多くの人にいろんな気づきや体験をもたらしてくれることはよくわかってます。でもそれによってすべての問題が隠されて、なかったことになるのはおかしい。僕たちはその危うさに気づかないといけない。1940年に幻の東京オリンピックがありましたが、いまの日本はその時の雰囲気にとても似てるんじゃないか。1930年代、日本の近代化を世界に発信するために、報道写真家たちが駆り出されて、日本の文化や産業をかっこよく写した写真誌を世界中に発信していた。それって、いまで言うクールジャパン戦略と全く同じなんです。ところがその後、何が起こったか? 日本は国際連盟を脱退して、一気に戦争に突き進んでいきました。当時の報道写真家たちは国の豊かさを知らしめることが我々の使命だと信じて疑わなかったと思いますが、いまどのテレビチャンネルも同じことをしてますよね。だからこそ、オリンピックという大きな主語から切り捨てられた小さな主語をきちんと伝えないといけない。でも、いま新型コロナウイルスの影響で、オリンピックの開催自体が危うくなっている。これも1930年代の状況とすごく似てますよね。当時も市民社会はそれなりに成熟していて、日常に没頭している間に政治が変容していくことを許してしまった。オリンピックについて語る時、僕たちは戦後の復興を象徴した1964年の東京オリンピックに言及しがちですが、いまこそ幻となった1940年東京オリンピックに目を向けるべきなんです。

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