2年連続プロ野球へ好投手輩出 日体大・辻孟彦コーチの「100人いたら100通り」の指導哲学

日本体育大学は2018年に松本航(埼玉西武ライオンズ・ドラフト1位)と東妻勇輔(千葉ロッテマリーンズ・ドラフト2位)、2019年に吉田大喜(東京ヤクルトスワローズ・ドラフト2位)と、2年連続でプロへ好投手を輩出している。彼らを指導したのは、辻孟彦。中日ドラゴンズの投手としてプロの世界を経験し、偉大な先輩・山本昌から多くを吸収し、2015年から母校でコーチを務めている。なぜ日体大では好投手が育つのか? 辻のコーチング哲学に迫る。

(文=佐伯要、撮影=川本真夢)

目先の勝利よりも、この先に上の舞台で活躍するために

埼玉西武ライオンズの松本航は、2018年のドラフト会議で1位指名を受けて入団すると、プロ1年目の昨シーズンに16試合で登板して7勝を挙げた。彼が「自分の芯ができた」と言う出来事がある。

2015年。「プロへ行きたい。大学でもっと成長しよう」と日本体育大学(以下、日体大)に入学した年のことだ。春の首都大学野球リーグ戦でデビュー。秋には1年生ながら先発を任されるようになった。当時の松本は直球には自信を持っていて、試合を作るために変化球を磨こうとしていた。

そんな時、辻孟彦コーチから「目の前の試合で勝つことも大事だけど、この先に上の舞台で活躍することを考えよう。それには変化球でかわすより、直球を磨き続けたほうがいい」と助言された。それからは直球にこだわり、球の回転数を上げることを意識して練習するようになった。

直球の質が上がったことが、好成績につながる。2年春のリーグ戦では6勝をマーク。これをきっかけに3年夏には野球日本代表「侍ジャパン」大学代表入り、同年秋の明治神宮野球大会では日体大を37年ぶりの日本一に導くなど成長して、プロのスカウトたちの評価を上げていった。

辻は松本への助言をこう振り返る。「松本は高校時代(兵庫・明石商業高校)から柱として投げてきて、大学でも1年生の時から『僕がやらないと』という責任感がすごく強かった。そのため、試合に勝つことを考えすぎて、自分の成長のために持っているものを伸ばすことよりも、すでに持っているものをうまくまとめようとしていました。そういう点が気になって、この先を考えるようにアドバイスしたんです」

目先の勝利よりも、個人の成長。そう考える理由を、辻は説明する。

「勝つことはすごく大事だと思います。ただ、プロや社会人とは違って、大学では4年間という学べる期間がある。目先の勝利ばかりを考えると、せっかくの4年間を生かせない。4年生になった時に成長しているのが一番。もちろん、チームとしての目標は勝利です。個人としては自分がどうなりたいと考えて、どんな練習をするか。そして、練習でやってきたことが、試合でできたかどうか。試合で『勝った』『負けた』ではなく、練習と試合がつながって成長していればいい。この指導は、これからも変わらないと思います」

プロでの戦力外通告から母校の指導者に

辻は日体大時代にリーグ戦通算で63試合に登板。22勝を挙げた。最速147 km/h、常時140 km/h前後の直球を低めに集める投球が身上だった。4年春には14試合中13試合でマウンドに上がり、東海大・菅野智之(現・巨人)に1対0で投げ勝つなど、5完封を含む10勝をマークしている。シーズン5完封は首都大学リーグのタイ記録、シーズン10勝は同新記録で、どちらもまだ破られていない。

2011年のドラフトで中日から4位指名を受けて入団。しかし、プロでは一軍で13試合に登板して0勝0敗。2014年のシーズン終了後に戦力外通告を受けた。その直後に日体大・古城隆利監督から声がかかり、2015年から母校のコーチになる。

もともと「将来は指導者になりたい」と考えて、日体大に進学していた。戦力外通告を受けたあと、複数の社会人チームから選手としての誘いもあった。葛藤はあったが、「現役ができる状態で指導者になるのはいいことだ」と考え、母校のコーチ就任を決断する。普段は辻のすることに何も言わない父・雅夫さんからは「選手として続けてほしい」と言われた。だが、決心は揺るがなかった。

偉大な先輩・山本昌からの学び

プロで過ごした3年間は、現在の指導に生きている。当時の中日には、投手の大先輩である山本昌がいた。山本は自分の練習が午前中で終わったあとも、若手の自主練習が始まる16時頃になるとグラウンドにもう一度出てきてくれて、いろいろなことを教えてくれた。

山本は、辻が何を思っているのか、どこをどうしたいのかを聞いてくれた。そのうえで「こうしたほうがいいんじゃないか」「こんな方法もあるよ」とアドバイスをくれた。

「私はプロで1勝もしていない若手。昌さんはプロで30年近くやった大ベテランで、200勝以上しているすごい方。なのに、それを感じさせない人でした。自分が話したいことが話せたし、聞きたいことが聞けた。指導者が選手に教える、先輩が後輩に教える関係では『上から』になりがちじゃないですか? 昌さんはそうではなかった。どんな人にでも、その人に合った言葉をかける。その姿を見られたのは大きかったですね」

山本と辻の関係が、そのまま今の辻と選手の関係に置き換わっている。日体大には約30人の投手がいるが、彼らにとって辻は「話を聞きに行きたい」と思える先輩のような存在だ。

選手を知り、成長を妨げない

辻は新入生が入学してくると、その選手を知ることから始める。「どんな投手を目指すのか」「小学校、中学校、高校ではどういうことを大切にして、どんな練習をしてきたのか」などを本人と会話したり、紙に書いてもらったりして把握するのだ。その後も、春のリーグ戦終了後や年明けの練習始めなどの節目に「自分がどうなりたいのか」という目標と、「そのために何をするか」という個別練習のメニューを自分で考えて、提出してもらう。

「いつ、何球投げるか。そういうところまで自分で考えて練習する。これが大事だと思います」と辻は言う。やらされる練習ではなく、やる練習。日体大では練習時間が4時間あるとすると、そのうち投手陣全体で辻が指定したメニューに取り組むのは約1時間半。その他は個別練習の時間に充てており、選手たちは自分の目標のために必要と考えた練習をする。

「指導者が『これが正解だ』と考えてしまうのはよくありません。1つの方法で100人を教えることはできない。100人いれば100パターンの指導がある」と辻は言う。そうした指導のなかで特に大切にしているのは「選手の成長を妨げないこと」だ。

「みんな、自分が成長するために練習している。もちろん、それを妨げるのが指導者であってはならない。そうでなくても、選手が自分の可能性を信じずに、自分で自分の成長を妨げてしまうこともあります。そうならないように見極めたい。そのためにその選手の長所と、その選手がどうなりたいかを知ることからスタートします。それがわからないと、アドバイスはできませんから」

選手の可能性を信じて

2018年のドラフト2位で千葉ロッテに入団した東妻勇輔は、自分自身のポテンシャルを低く見積もっていた。2015年に智辯和歌山高校から日体大に入学してきた当時は、直球の最速は144 km/h。本人は「自分はスライダーが得意なピッチャーだ」と考えていた。東妻は高校3年春の甲子園に出場した時、高校野球の雑誌のアンケートに「将来の夢は体育教師」と書いた。のちに「小学校の頃からプロになるのが夢だったけど、『プロ野球選手』と書くのはおこがましいと思った」と苦笑いで打ち明けている。

辻はそんな東妻を見て「プロに行ける素材だけど、身体能力の高さを生かし切れていない」と感じ、「150 km/hを出せる」と言った。

「東妻は身長170cmと小柄で、いろいろな人が『この体で球がこれ以上速くなるはずがない』と言っていました。『サイドスローにしたほうがいいんじゃないか』という人も複数いた。でも、あの体が生む瞬発力と投げっぷりからすると、150 km/hが出せると思って、数字を出したんです」

そう言われた東妻は当初「150 km/hなんて、出るわけない」と思ったという。しかし、辻の指導でフォームを修正したり、トレーニングを積んだりした結果、2年春のキャンプで自己最速を更新する145 km/hを計測。この成功体験で「やればできるんだ」と、東妻のなかにあったリミッターが外れた。その春のオープン戦で149 km/hをマーク。3年春には152 km/hまで伸ばし、ドラフト上位候補となった。プロ1年目の昨シーズンは7月に一軍に昇格。24試合で救援して3勝を挙げている。

松本も東妻も、大学時代に長所を生かし、伸ばしたことで、プロに入ってからも活躍できる投手に成長した。育成を考えるうえでは、その選手の短所を消すことも選択肢の一つ。だが、辻は長所を伸ばすことを選ぶ。

「長所を伸ばすほうが、モチベーションが上がりますよね。何より、私自身が楽しくやりたいタイプ。選手の長所、例えば『体の力がある』『球が速い』『コントロールがいい』といったところを探して、『こうしたらもっと良くなるよ』と話すほうが盛り上がるじゃないですか。短所を消すのは『勝つため』とか『ここが気に入らない』という、指導者側の理由になりがち。そうではなくて、あくまで選手の成長を考えて、長所を伸ばしたい」

ケガをマイナスではなくプラスに

一般的には、ケガも選手の成長を妨げる要因の一つと考えられている。しかし、「ケガをマイナスではなく、プラスにしよう」という辻の言葉に支えられた選手がいる。吉田大喜。2019年のドラフトで東京ヤクルトから2位指名を受け、入団した。

吉田は大阪・大冠高校の146 km/h右腕エースとして、高校3年夏の大阪大会でチームを公立校として7年ぶりの4強へ導いた。プロ志望届を出したが指名漏れ。「大学の4年間で頑張って、もう一度プロを目指そう」と、2016年に日体大へ入学した。

1年秋にリーグ戦デビューを果たし、3勝を挙げる。だが、翌年の夏に右ヒジを痛めた。「これからという時に、シーズンを棒に振ってしまった」と焦る吉田に、辻が「いい選手はケガ明けに活躍する。ケガをマイナスではなく、プラスにしよう」と声をかけた。

吉田はその言葉が「すごく心に響いて、励みになった」と振り返る。コツコツとトレーニングを積み、体を作っていくと、3年春には球速が150 km/hに到達した。辻は言う。

「いい選手がケガ明けに活躍するのは、ケガをしている時期に自分の課題と向き合って練習するから。投手は投げること、体を作ることの他にも守備やけん制など、いろいろな練習をしなければなりません。それよりも一つに絞って練習したほうが伸びる。吉田はフォームはいいものを持っていたけど、その長所を生かすためには体の力が不足していた。無理をすれば試合でも投げられる状態でしたが、投げずに課題と向き合って、ケガをプラスに変えようと話しました」

辻自身もケガを経験している。中学時代、京都ビクトリーズのエースとして全国大会で8強入り。全日本選抜に選ばれ、世界大会で3位に入賞した。しかし、右ヒジのじん帯を損傷して、京都外大西高校に入学してから約2年間はリハビリに費やした。

その間に、関西メディカルスポーツ学院の摩季れい子学長や青山武士トレーナー(現AOYAMA TRINING LAB代表取締役)からリハビリ指導を受けたり、体のしくみや動作分析について教わったりした。テニスボールを投げることから始めたが、最初はマウンドからホームベースまでの18.44mの距離も届かないほどだった。練習を終えて自宅に帰ると、トレーナーをしていた4歳上の姉・蓉子さんが毎日、ストレッチやマッサージをしてくれた。そんな日々を経て、3年夏には一塁手兼任の投手として甲子園に出場している。

「あの2年間は苦しかったけど、今思えばメチャクチャ勉強になりました。そのおかげで、大学ではあれだけ投げてもケガをしなかった。自分の体験が今の指導に生きていると思います」

100人いたら、100人を成長させるのが理想

プロ入りした松本、東妻、吉田の他に、昨年は北山比呂が東芝へ、柴田大地が日本通運へと、社会人強豪チームに進んだ投手もいる。また、今年の4年生にも155km右腕の森博人(愛知・豊川高校出身)、150 km/h右腕の吉高壮(兵庫・明石商業高校出身)というドラフト上位候補がいる。ただ、辻にとっての選手の成長とは、選手がプロや社会人に進むことだけではない。

「プロや社会人に進めるのはほんの一部。ほとんどの学生にとって、野球は大学で終わりです。そのなかで1日1日を大切にして、自分を成長させる。125 km/hだった球速が130 km/hになる。ストライクが入るようになる。選手だけではなく、学生コーチも少しでもチームを良くしようと勉強している。目標のために課題に取り組んで、できなかったことができるようになるという一人ひとりの成長がある。そうやって野球を通して学んだことは、社会に出てからの仕事にもつながると思います」

今後の目標を訊くと、辻は「理想は100人いたら、100人を成長させること」と即答した。

「今はまだ、できていません。自分ではここまでしか成長させてあげられなかったけれど、もし違う人にアドバイスを受けていたら、もっともっと成長できたんじゃないか……毎年毎年そう考えて、申し訳ない気持ちにもなります。私自身、指導者としてもっと成長しなければいけない。選手の立場だったらどんな指導者に教わりたいか。そう考えると、やはり成長している人。『もっとできる』という向上心は持ち続けたい。今の選手たちはいろいろな情報からたくさん勉強していますよね。私の知識はまだまだ足りないと自覚しています」

辻は2018年4月から日体大の大学院でコーチング学やバイオメカニクスを学んだ。2020年の3月で修了だが、今後はその知識を野球につなげて、選手たちに還元していく。

「コーチの仕事は大変? うーん、大変じゃないんですよね。ウチの選手たちもそうだと思いますが、私も努力しているというより、好きだから夢中でやっているだけ。誰の言葉だったか、『努力は好きには勝てない』。まさにそのとおりだと思います」

選手たちを成長させるために、辻は自分自身を成長させる。その哲学に基づいた指導は、これからもずっと続いていく。

<了>

PROFILE
辻孟彦(つじ・たけひこ)
1989年7月27日生まれ、京都府出身。中学時代は京都ビクトリーズで投手を務め、全国大会8強入り。全日本選抜に選ばれ、世界大会で3位。京都外大西高校では3年夏に一塁手兼投手として甲子園に出場し、3回戦に進出した。日本体育大学では1年春から首都大学リーグ戦で登板。2年春からエースとなり、通算63試合で22勝18敗、防御率1.94をマーク。2011年のドラフトで中日ドラゴンズから4位指名を受けて入団。2014年限りで現役を引退するまでに13試合で登板した(0勝0敗)。2015年から日体大のコーチに就任し、投手を指導している。

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