蒲生氏郷 【信長に認められ秀吉に恐れられた武将】

蒲生氏郷とは

※蒲生氏郷像

蒲生氏郷(がもううじさと)は織田信長に認められ、豊臣秀吉が徳川家康よりも恐れ、伊達政宗に命を狙われた武将である。

信長・秀吉と2人の天下人から実力を認められて91万石の大大名となったが、早過ぎる死ゆえに秀吉と政宗から暗殺説も噂された武将・蒲生氏郷について追っていく。

織田信長との出会い

蒲生氏郷(がもううじさと)は弘治2年(1556年)近江国の六角義賢の重臣・蒲生賢秀の3男として近江国で生まれ幼名は鶴千代であった。
蒲生家は藤原氏の系統に属する鎌倉時代からの名門であった。

※織田信長

永禄11年(1568年)観音寺城の戦いで六角氏が織田信長に敗れると、父・賢秀は鶴千代を織田信長に人質として差し出した。
信長は六角氏が敗走したにもかかわらず籠城を続けた賢秀を気に入り、後に柴田勝家の与力としている。

人質となった当時12歳の鶴千代は、信長に物怖じすることなく睨んだという。

信長は「蒲生の息子の瞳は他の者とは違う、普通の者ではない、婿にしよう」と気に入り次女・冬姫を嫁がせることを決める。

「あの信長様が人質に自分の娘を嫁がせるとは」と織田家家中は大騒ぎになったという。
それほどまでに鶴千代(氏郷)は利発で目の輝きが素晴らしかったのだろう。稲葉一鉄も「やがて大軍を率いる武勇の将になるだろう」と称賛しているほどであった。

元服の際には信長が烏帽子親を務め、名前を忠三郎と名乗り後に氏郷とする。※(ここからは氏郷と記させていただく)

永禄12年(1569年)大河内の戦いにおいて14歳で初陣を飾る。

翌年、氏郷は父と共に柴田勝家の与力となって1千の兵を率いて朝倉氏を攻め、その働きによって5,510石の領地が加増された。

その後も姉川の戦い、第一次伊勢長島攻め、鯰江城攻め、朝倉攻め、小谷城攻め、第二次伊勢長島攻め、長篠の戦い、有岡城の戦い、第二次天正伊賀の乱などに参戦して数々の武功を挙げる。

織田家一門の武将として、その実力と名声が知れ渡るようになった。

秀吉の臣下

天正10年(1582年)本能寺の変の時、氏郷は父と共に安土城にいて、濃姫たち信長の一族を居城の日野城に匿い助けた。
周辺の領主が明智光秀につく中、氏郷だけは徹底抗戦の意を示す。

※羽柴秀吉(豊臣秀吉)

明智軍は日野城の包囲の準備に取り掛かるが、そこに毛利軍と戦っていたはずの羽柴秀吉(豊臣秀吉)軍が帰還する。

明智軍と秀吉軍の山崎の合戦では秀吉が勝利し、清須会議で優位に立った秀吉に氏郷は従うことになる。

天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いでは滝川一益の北伊勢の攻略にあたり、天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いでは戸木城・加賀野井城を攻め、特に加賀野井城では大きな武功を挙げる。

その後も羽柴軍の殿(しんがり)を務めるなど武功を挙げて、伊勢松ヶ島12万石に加増・転封となる。
この時、秀吉から「羽柴」姓を与えられている。それほどまでの活躍をしたということだ。

その後も紀州征伐、富山の役にも参戦して天正14年(1586年)には従四位下・侍従に任じられる。

その後、九州征伐に参戦し天正16年(1588年)に正四位下・左近衛少将に任じられ「豊臣」姓を賜る。

天正18年(1590年)小田原攻めでは、たった1人で甲冑も着ていない時に夜襲を受けるが、槍を手に1人で敵兵を次々と討ったという逸話がある。

秀吉に恐れられた男

北条氏を滅ぼし統一事業を終えた秀吉は、奥州仕置で氏郷を伊勢から陸奥国会津に移封して42万石を与えた。
その後、検地や加増などで91万石にまで増え、氏郷は大大名の仲間入りを果たす。

秀吉が会津を氏郷に任せた理由は諸説があって、奥州の伊達政宗や関東の徳川家康を抑えるためという説。

秀吉が諸将に誰に会津を任せるかと投票をすると、ほとんどが細川忠興と書いてあったが、忠興が「自信がない」と辞退して氏郷になった説。

氏郷も同じ理由で辞退しようとしたが、秀吉の気色を損ねてはと「自分は武功の家臣が少ないので、この地につくなら今浪人となっている剛勇の者を召し抱えることを許すなら」という条件を秀吉が許したから承諾した説。などがある。

ある時、秀吉は「100万の大軍を采配させたい武将は誰か?」と家臣に問うた。家臣達は「徳川家康」や「前田利家」と答えると秀吉は「違う、それは蒲生氏郷だ」と言ったという。
秀吉は信長がその器量を認めた氏郷を恐れていたので、家康や政宗を抑制する理由の他に、氏郷を政治の中心の上方に置いてはおけないと会津に置いたのである。

氏郷はキリシタン大名の高山右近と親友であり、天正13年(1585年)右近の影響で「レオン」という洗礼名を授かる。

この「レオン」は軍人として非常に優秀な「レオン三世」から付けられていた。

この時の宣教師は氏郷のことを「優れた知恵、万人を想う器量を持ち、戦では幸運と勇猛さを備えた傑出した武将である」と評価している。

政宗からの刺客

※伊達政宗

伊達政宗にとって会津は悲願の土地であった。広大な盆地があり交通の要所でもある。

蘆名氏との壮絶な摺上原の戦いの末にようやく会津を手に入れたのだが、惣無事令(そうぶじれい)を無視したことで奥州仕置によって秀吉に没収された。(※惣無事令とは大名間の私的な領土争いを禁止するもので、領土争いは豊臣政権が処理に当たりこれに違反した大名には厳しい処分を下すというもの)

会津に入った氏郷と政宗は度々ぶつかり合い、政宗は氏郷の領土を自分の領土だと度々難癖をつけている。

政宗は清十郎という16歳の少年を氏郷の小姓として潜り込ませ氏郷を暗殺しようとしたが、氏郷にばれて暗殺計画は失敗に終わっている。

氏郷が葛西・大崎一揆の鎮圧に向かう途中、政宗は朝茶に誘い毒を盛った。氏郷は帰路にそれを知り、慌てて毒を吐いたこともあるという。

死の謎

文禄元年(1592年)文禄の役では肥前名護屋城へ参陣し、秀吉に「自分の領地を召し上げられても構わないから出兵に参加させて欲しい、自分の領地を自分で奪い取って来ます」と強気な発言をする。
しかし、体調を崩してしまい会津に帰国。その後、更に病状は悪化してしまう。

秀吉は氏郷を心配して上洛させて名医9人に診てもらい、前田利家や家康にも名医を頼んでいる。

しかし、その甲斐もなく文禄4年(1595年)2月7日、蒲生氏郷は京都の伏見屋敷で享年40歳で亡くなった。40歳という早すぎる死に誰かに暗殺されたのではないかという説もある。

氏郷の死後、蒲生家は嫡男・秀行が12歳で継ぐが、お家騒動が起きて秀吉が介入する。
その結果、騒動の元になった家臣は軽い処分で済んだのに、蒲生家は宇都宮12万石にと減封となった。

蒲生家の存在を恐れた秀吉が氏郷の毒殺を計画し、没後大減封して力を削いだのかも?と憶測を呼んだ。

しかし当時の医者の残した文献に発病後3年間の症状が記されており、その症状から推測して「直腸癌か肝臓癌」だったとされている。

蒲生氏郷の治世や趣味

会津に入った氏郷は、武田信玄の旧家臣や小田原攻めで浪人となった多くの武勇の者たちを家臣にしている。

※若松城(鶴ヶ城)

そして、守りを固めるために重臣たちを領内の支城に配置して、居城の黒川城を7層楼の天守を有する城に改修して「鶴ヶ城」と名付ける。

城下町の開発を行い、町の名前を黒川から若松へ改めて、商業政策を促進して旧領の日野や松坂から商人を招聘し、楽市楽座を導入して手工業を奨励した。

氏郷は茶湯を好み、千利休に師事して「利休七哲」(利休の7人の高弟)の筆頭にもなっている。
茶湯の他にも講談・怪談を好んだ話好きで、連歌や和歌にも才能を見せる。

高山右近からキリスト教の話をされた時は、最初は興味が無かったが一度の説教に感激し洗礼を受け、会津に移ると領国にキリスト教を布教している。

おわりに

蒲生氏郷は、会津へ転封される時に「上方で何か変事が起きた時にすぐに駆け付けることが出来ない」と大加増の転封を嘆いていたとも言われる。

織田信長が12歳の時にその器量を認め、大将でありながら先頭に出て戦い、優秀な家臣団をまとめ上げた氏郷は、40歳で早世しなければ次の天下人になっていたと言われるほどの人物であった。

(文/rapports : 草の実堂編集部)(画像:wiki(C),public domain)

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