ピチカート・ファイヴのストーリー、書くことによって現実が変わる? 1991年 9月1日 ピチカート・ファイヴのアルバム「女性上位時代」がリリースされた日

ピチカート・ファイヴの小西康陽、はじめての本

2001年3月31日、ピチカート・ファイヴは事実上、解散した。
解散から遡ること5年、渋谷系の終わりの始まりが見えた1996年の年末、“ピチカート・ファイヴの小西康陽、はじめての本!” という触れ込みで『これは恋ではない 小西康陽のコラム1984 - 1996』が世に出た。この本のあとがきで、小西さんはこんなことをさらっとカミングアウトしている。

「この本に収められた文章は、ピチカートがブレイクするまでの困窮の日々を食い繋ぐために書いた原稿の集積である」

このことから僕の頭に思い浮かんだエピソードが2つ。1つは菊地成孔に対し、ピアニストの山下洋輔が「ミュージシャンが食っていくには、雑文でも何でも書いて書いて書きまくれ!」といった助言をしたという話。もう1つは、はっぴいえんど解散後の松本隆が音楽プロデューサーを目指したものの、アルバムを何枚か制作した時点でほぼ食えないことが分かり、手っ取り早く自分の才能で食っていくために “歌謡曲の作詞家” に転向したという話。

野宮真貴が意識していたのは、松田聖子と戸川純?

その松本隆が詞を書いて書いて書きまくってスターの座に押し上げた歌手の1人に松田聖子がいる。そして、ピチカートのボーカル、野宮真貴が歌い手として意識し続けているのは松田聖子の存在だという。世代もデビュー時期も近く、その入れ込みようは聖子ちゃんの武道館公演に駆け付けるほど。

その一方で、デビュー前はサエキけんぞう擁する千葉のニューウェーブバンド、ハルメンズでコーラスを担当していた80年代ニューウェーブを象徴する歌姫、戸川純にも羨望の眼差しを送っていたという。1981年、野宮は "新歌謡" のコンセプトのもと、ムーンライダーズの鈴木慶一プロデュースでデビューアルバム『ピンクの心』をリリース。その後はポータブル・ロックのボーカルとして活動するがブレイクには及ばなかった。

世界同時渋谷化現象、ニューウェーブからShibuya-Keiへ

サブカルシーンにおいて、戸川純のカルト的人気がピークを迎えつつあった1984年、もともと職業作曲家を目指していた小西康陽はピチカート・ファイヴを結成した。縁あって細野晴臣のレーベル、ノン・スタンダードからデビュー。その後の紆余曲折を経て1991年、「君を絶対にスターにする」と口説き落とした野宮真貴を3代目ボーカリストに迎え、フルアルバム『女性上位時代』含む5作品を5ヶ月連続でリリースするというキャンペーンに打って出た。

1993年にはフリッパーズ・ギター解散後の小山田圭吾をプロデューサーに起用した『ボサ・ノヴァ2001』でブレイク、Shibuya-Kei(渋谷系)という世界同時多発的ムーブメントに至る。この流れが存在しなかったなら、同時期にグランジが勃興したアメリカ、ブリットポップに沸いたイギリスに比べ、日本のポップス・ロックシーンは鎖国状態に陥り、酷く退屈なものとなっていただろう。

そう、少なくともミック・ジャガーやティム・バートンがファンを公言するような現象は起きていないはず。つまり、ピチカートの上部構造を掌る野宮真貴がTOKYOのアイコンとして機能したという事実は、渋谷系以前に少なからず世界と共振した「極東のパンク / ニューウェーブシーンの片隅から、そのフレイバーが隔世遺伝したかのように世界に届いたのだ!」と僕の胸は躍る。

インストや英語詞でもない、普通の日本語ポップス!

坂本龍一や喜多郎など、言語に左右されることのないインストゥルメンタルや映画のサウンドトラックは、イージー・リスニングやニューエイジ的な括りで海外に流通したこともあった。ドメスティックなロックシーンで頂点を極めた矢沢永吉や、山口百恵引退後の女性アイドルを牽引し続けた松田聖子もアメリカナイズされた作品を英語詞でリリースしたものの、成功と呼べる功績は残せずにいた。

マタドールというアメリカのレーベルからリリースされたピチカートのCDに収録されたのは、普通に日本国内で流通している日本語の歌詞のポップスだ。渋谷系は同時代の日本の文化風俗を含め、そのままの形が世界に歓迎された点が新しかった。

新宿二丁目にも貼り出されるピチカート・ファイヴのポスター

アメリカはもちろん、フランスを始めとしたヨーロッパ諸国、ダンスミュージックの温床となるクラブ、派手に着飾ったドラァグクイーンなど、世界中にフリーキーなファンが点在するピチカート。

また、独特の美意識の高さがウリの新宿二丁目界隈の飲み屋に貼り出されたポスターの変遷も面白い。お嬢(美空ひばり)一点張りの時代から、80年代はアイドルでもあったバンド、C-C-Bに取って代わられた。そして90年代は群を抜いてピチカート(野宮真貴)が貼られていたらしい。

時に “女性以上に女性らしくあること” を追求するゲイカルチャー。映画にも造詣の深い小西さんが “きみみたいにきれいな女の子” とイメージした理想の女性像を完璧に再現した真貴ちゃんが二丁目で崇められるのは想像に難くない。その2人の関係は日本映画の巨匠、小津安二郎監督と主演女優、原節子の関係のようでもある。

小西康陽のコラム、書くことによって現実が変わる

話を文頭に戻そう。僕は小西さんの筆力を通して “書くことで現実が変わる” 様を、目の当たりにしてきた。例えば、小西さんのシネマホリックぶりはつとに有名で、年間かなりの日数を名画座通いに充てていたほどだという。

この映画が好きだ!というシンプルで強い情熱や、この作品が世に出ずに埋もれたままでいるのはオカシイ!という真っ当な憤りは制作側やマニアックなファンの心に火をつけ、幻の名作という類いの小品が単館上映されるに至ったり、リコメンドしたアルバムの再発が決定したり、お気に入りと紹介したレコードの値段が瞬く間に高騰し、DJの間で高値でやりとりされたりと、その例は枚挙にいとまがない。

まさに、“書くことによって現実が変わる” のだ。

カタリベ: キンキーとキラーズ

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