「念ずれば花開く」元西武GG佐藤氏、補欠をプロに導いた“恩師”野村克也氏への感謝

野村克也さんとの思い出を語る「G.G.佐藤」こと佐藤隆彦さん【写真:宮脇広久】

父の営む会社で営業所長となったGG佐藤さんにインタビュー

 かつて『G.G.佐藤』の登録名で西武などで人気選手として活躍する一方、日本代表として出場した2008年北京五輪では痛恨の3エラーを犯し、波乱万丈の野球人生を歩んだ佐藤隆彦さん。2月11日に死去した野村克也さん(元南海、ヤクルト、阪神、楽天監督)は中学時代の恩師で、18日前の1月24日にテレビ番組で対面し、これがノムさんの“生前最後の映像”となったことでも話題になった。大学時代に補欠だった佐藤さんが1億円プレーヤーになれた理由、野村さんとの深い縁を明かした。

 佐藤さんは現役引退後、父親が社長を務め測量、調査、地盤改良工事、不動産などを扱う「株式会社トラバース」に入社。現在は、千葉営業所長として部下約80人を率いている。千葉・市川市のオフィスには、野村氏が直筆で「念ずれば花ひらく」としたためた色紙を飾っている。中学時代、野村さんの妻・沙知代さん(17年12月死去)がオーナーを務めていた「港東ムース」に所属。当時ヤクルト監督だった野村さん本人からも、たびたび指導を受けた

──今もこうして色紙を飾っている

「中学卒業の時、野村監督は僕にこれを渡しながら、『念ずれば花は必ず開く。夢はかなうんだよ。夢がかなわなかった人というのは、途中で念ずるのをやめた、あきらめた人なんだ』と言ってくれたんです。当時の僕は、プロ野球選手になりたいという夢は持っていましたが、野球はそんなにうまくなくて、あまりに遠い存在すぎてイメージがつかなかった。ところが、実際にプロ野球の現場にいる方からこの言葉をもらって、『えっ? 超簡単じゃん! 俺、念じ続けるだけでプロ野球選手になれちゃうんだ』って、素直に思ったんですよね。この色紙は、高校時代には寮に持って行きましたし、大学で1人暮らしをしたときも、常に近くに置いていました」

──そもそも、市川市の自宅から東京・田園調布で練習する「港東ムース」に入団したのはなぜか

「僕自身強いチームでやりたかったですし、父親も『弱いチームでは天狗になってしまう』という考えで、どうせなら日本一強い所でと、(シニアリーグで)全国優勝していた港東ムースを選びました」

──練習は厳しかった

「最初、同級生は30~40人いましたが、どんどん辞めていって、最後は8人くらいになっていました。野球の質はめちゃくちゃ高くて、高校に進学してから教わることが何もないくらいの指導をしてくれました。沙知代さんがオーナー、(野村さんの息子の)団野村さんが監督。当時ヤクルトの監督をされていた野村さんご本人も、時間があるときにには来てくれて、全国大会になると必ずベンチに入ってくれました。『次、変化球来るぞ』、『次はストレートや』とベンチでぼそっとつぶやくと、全部当たってましたから、すごい洞察力だと思いました」

──プロ野球と変わらないことをやっていた

「当時から『体力1割、気力1割、頭が8割』とおっしゃっていました。『年齢は関係ない。野球とはそういうスポーツだ。1球ごとに間(ま)があり、それを制した者が野球を制する』と。古い人の言葉とかも、しょっちゅう言ってくれていました」

──しかし佐藤さんはその後、桐蔭学園高、法政大では順風満帆とはいかなかった

「高校通算3本しかホームランを打ってませんし、大学は4年間ずっと補欠ですから。野球をやめてもおかしくないシチュエーションはいっぱいあったと思うんですけど、その度に、いつもこの言葉(念ずれば花ひらく)がぽわんと浮かんできて、あと1日だけ、この一瞬だけ頑張ろうと思ってやってきました。ホント、野村監督に感謝です」

──野球を一緒にやっていた仲間は徐々に……

「みんなやめていきました。自分より才能、ポテンシャルがあった人もやめていきましたが、自分はこの言葉を信じて一生懸命やるだけだったんで」

大学4年間は補欠、プロ入り信じる父が母に一筆書かせる珍エピソードも…

──野村さんとの出会いが人生を決めた

「それと、父の影響も大きかったです。僕が6歳のとき、ボールを転がしたら物の見事にさばいたらしいんです。父は母に『佐藤家にとんでもない子を授かっちゃったぞ。この子は必ずプロ野球選手になる』って言ったそうです。そこから二人三脚が始まっちゃったんですね。小学生時代の6年間は、毎朝6時に起こされて、父と一緒に練習しました。ランニングして、ノックして、ティー打撃して1時間。空地にネットを立てて、金属バットで硬球をカンカン打ってました。今はこうして住宅地になっていますが、当時は野原で、ご近所に怒られることはありませんでした」

──お父さんも「念ずれば花ひらく」の精神でサポートしていた

「大学卒業のとき、ドラフトで指名されず、母は父に『あなたは嘘つきね。隆彦はプロ野球選手にならないじゃない』と言ったそうです。ところが父は『ふざけるな! 今から必ずなるから待ってろ。おまえ、一筆書け』と言い返して、母に『息子佐藤隆彦がプロ野球選手になった際には、私は毎晩三つ指ついてあなたをお迎えします』と書かせた。それがいまだに残っているんです。父は、僕がプロ野球になるとは誰も思わない中、たった1人僕のことを信じてくれたんです。その思いに応えたいというのは、子供ながらにありました。僕の夢でもあり、父の夢でもあった。それは間違いなく原動力のひとつでした」

──大学卒業後、テストを受けて米大リーグ・フィリーズ傘下の1Aに入り、3年間在籍。内野から捕手にコンバートされた

「いい経験をしました。メジャー昇格を目標にしてはいましたが、レベルが本当に高くて、1Aにしかいけなかった。1Aにも上、中、下とレベルの違う3チームがあって、真ん中までは行ったんですが、その上に2A、3A、そしてメジャーがあるのですから、とんでもない国だと思いました。3年間でクビになり帰国しましたが、アメリカですごく野球がうまくなったんですよ。向こうでは試合に出まくりましたから。補欠だった大学時代には年間5試合も出ていなかった僕が、100試合も出た。そりゃ、うまくなりますよ。法政大学は同級生の広瀬純(現広島外野守備・走塁コーチ)、阿部真宏(現西武打撃コーチ)、1学年上の安藤優也さん(現阪神2軍育成コーチ)をはじめプロに行く選手がたくさんいましたが、そういう物差しでみても、今なら絶対に日本のプロには入れると思いました」

──03年に西武の入団テストを受け、ついに同年ドラフト7巡目で指名された

「ドラフト会議のわずか2週間前、知人のつてで、埼玉・所沢の西武の室内練習場でテストをしていただくことになりました。その年に現役を引退され、監督に就任したばかりの伊東勤さん(現中日ヘッドコーチ)が来てくれて、その日のうちに『取る』と言ってくれました。伊東さんの引退でちょうど捕手の枠が空いていた。ラッキーでしたね」

【次回は北京五輪の悪夢と現況について語る】(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)

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