岡田光世「トランプのアメリカ」で暮らす人たち 一瞬で楽観が消えたニューヨークの今

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「This is not New York.(こんなのニューヨークじゃない)」

ゴーストタウンと化したマンハッタンは、まるで映画を見ているようだ(2020年3月17日、リトルイタリーで筆者撮影)

タイムズスクエアで警備に当たっていた警官が、ぽつりとつぶやいた。

この発言は2020年3月中旬のこと。その頃からニューヨーク市は新型コロナウイルスの感染拡大で、まったく様変わりした。この街は大都会だが、ふだんなら他人同士でも気軽に笑顔や言葉を交わす光景がよく見られるのが日常だった。

35年間、見たことのない光景

3月14日は土曜日だったが、夕方、ニューヨーク市内で地下鉄に乗ると、乗客はまばらで、人々の表情は暗く、車内は静まり返っていた。それまではまったく見られなかった、マスクや薄いビニール手袋をした人たちが目立った。私もこの日、ニューヨークで初めて、マスクをした。降りた地下鉄の構内には、誰ひとりいない。

12日夜から翌週はじめにかけて、ブロードウエイ・ミュージカルの劇場、映画館、美術館、コンサートホール、自由の女神、エンパイア・ステイト・ビル――あらゆる観光名所や娯楽施設が次々と閉鎖された。

マンハッタン南部のチャイナタウンもリトルイタリーもソーホーも人がいない。

私は1985年にニューヨークに住み始めたが、これまで見たことのない光景だった。

大統領の言葉を信じていた国民も

2020年2月26日、トランプ大統領はホワイトハウスで記者会見し、「米国民への感染リスクは、依然低い」とし、こう話した。

"We are ready for it. We are really prepared. As I said, we have the greatest people in the world. We are very ready for it."
「用意はできている。準備は本当に十分だ。前にも言ったように、我々には世界で最も優れた人たちがついている。準備は十分すぎるほど万端だ」

トランプ氏のこの言葉を、信じていた国民も多かったはずだ。

ニューヨーク州では3月1日、州内最初の感染がマンハッタンで確認された。その後1週間ごとに105人、729人、15,168人と急増。4週間後の29日には59,513人となった。死者は14日に2人だったのが、半月で1,000人に達する勢いだ。

ニューヨーク市では最初の感染確認後、1週間ごとに14人、299人、10,764人と急増し、今や約30,000人となった(3月29日現在)。

米国では3月中旬、欧州30か国近くを対象に入国制限が始まり、観光客は激減した。

16日、マンハッタンにある大手デパート「メーシーズ」に行ってみると、客足はすっかり減っていた。殺菌スプレーを手に立っている店員のほうが、多そうだった。

客を迎えるために一階にいた女性店員は、「みんな、過剰反応よ。ポジティブな人は、こうしてまだ買い物に来てくれるわ」と明るく振る舞っていた。

が、その翌日の午後、メーシーズはその日をもって、子会社のブルーミングデールズを含む全米の750店舗を3月31日まで閉鎖すると発表した。その日はもう過ぎようとしている。

そのあと、前を通ったバーガーチェーン「マクドナルド」では、正面に張り紙があり、「アンドリュー・クオモ・ニューヨーク州知事の命令により、4月12日(日)まで、すべてのレストランで収容人数を50%に減らすよう要請されています」と書かれている。店内ではテーブ1つおきに、「このテーブルは使えません」と紙が貼られていた。

しかし、この紙はすぐに用がなくなった。その夜8時以降、ニューヨーク市の広域都市圏を含むニューヨーク、ニュージャージー、コネチカット州の3州は、レストランやバー、カフェを閉鎖。持ち帰りと宅配だけに限り、営業を認めていた。

18日、マンハッタンのカフェに立ち寄ると、どのテーブルにも「NO SITTING PLEASE(座らないでください)」と紙が貼られ、店内のすべての商品2つを1つ分の値段で売っていた。

「日曜日から2週間閉店するの。落ち着いたらまた、店に戻ってこれると信じてるわ。そうでなきゃ、別の仕事を探さなきゃならないもの」

そのとき、店員はそう言っていたが、今もいつ再開できるかわからない。

ニュース番組で枢機卿が視聴者に祈りを捧げる

どのニュース専門のテレビ局でも、一日中、コロナのニュースばかりが流れている。大統領選予備選挙が行われている最中だが、それでさえ二の次という感じだ。

FOXニュースでは、セント・パトリック大聖堂の枢機卿がゲストとして中継で招かれ、視聴者に向けて祈りを捧げた。

「我々は神の下に一つの国。我々は神の子です。助けを求めて、神に目を向けてください。そしてお互い、兄弟姉妹として手を取り合ってください。医療関係者や政治家、マスコミの皆さん、ありがとう。私たちは心配していますが、神様、あなたの存在を信じています」

18日、家にこもってニュースばかり見ていると、気が滅入ってきたので、散歩がてらに「ユニオンスクエア」に出かけた。そこでは思いがけず、いつものようにグリーンマーケット(青空市場)が開かれていた。

ふだんより人出はかなり少なかったが、人のいないマンハッタンばかりを見てきたので、嬉しくて思わず声をあげた。人々は手作りのパンやチーズ、野菜や花などを買い求めていた。

ベンダー(売り手)のなかにはマスクをしている人も多く、並んだ商品の前に「DISPLAY ONLY」(陳列のみ)、「PLEASE DO NOT TOUCH」(触らないで)などと書かれたサインボードが置かれている。

今や合言葉になっている「6フィート(1.8メートル)」の距離を人と取りながら、公園をひと回りした。

買ったばかりの花を手にベンダーと話す女性に、「あなたの笑顔を撮ってもいい?」と声をかけると、「もちろん。この花屋さんの名前をちゃんと入れてあげてね」とポーズした。

相手との距離を取らなければならないし、マスクをしていると笑顔を投げかけても、表情が相手に伝わりにくい。今でもマスク姿に違和感を覚える人は少なくないので、「これ、念のためにしているだけだから」と説明すれば、「Sure.(もちろん)」と笑顔が返ってくる。

不安の中、辛抱強く、冷静に過ごす市民も

マフィンとクッキーを売ってくれたリトアニア出身のユダヤ人男性が、満面の笑みをたたえ、全身に太陽を浴びるように、両腕を大きく広げて言った。

「コロナに怯えてなんかいないさ。こうして自然に触れて、健康でいられるんだ。僕たちの祖父母は、戦争を体験したんだよ」

そうか、彼はユダヤ人だった。

このあと22日からは、買い出しや病院、散歩など以外は自宅待機、食料品店など生活に不可欠な業種を除いて、在宅勤務を強いられた。グリーンマーケットは今も開いているが、人々は6フィートずつ離れて一列に並び、買い物の順番をじっと待つ。

友人のサラ(70代)は感染を恐れ、今、友人とは一切、会っていない。カウンセラーの仕事は、すべてオンラインでやり、毎日、ひとりでセントラルパークを散歩しているという。

「ニューヨークは大変なことになってしまった。Awful.(とんでもないね)」と私が言うと、ほぼ同時にサラが「Beautiful!(美しいわ!)」 と言った。

「ニューヨークは花が咲き誇って、平和で穏やか。今までは、あれをしなきゃこれをしなきゃとあくせくしていたけれど、静かな時間が流れている。歩けばやせるし、一石二鳥だわ」

医療従事者や警察官など、家にいたくても、危険にさらされて働かなければならない人がいる。これからの生活の不安に怯える人もいる。そして、今するべきことをし、辛抱強く、冷静に過ごしている市民も多い。

私たちも今、戦っている。公園で出会ったリトアニア出身の彼が言うような国同士の戦いではなく、共通の見えない敵と世界中が戦っている。それが、せめてもの救いだ。

そして、誰もが信じている。この戦いにいつか必ず勝利するのは、私たちであることを。(随時掲載)

++ 岡田光世プロフィール
おかだ・みつよ 作家・エッセイスト
東京都出身。青山学院大卒、ニューヨーク大学大学院修士号取得。日本の大手新聞社のアメリカ現地紙記者を経て、日本と米国を行き来しながら、米国市民の日常と哀歓を描いている。米中西部で暮らした経験もある。文春文庫のエッセイ「ニューヨークの魔法」シリーズは2007年の第1弾から累計40万部。2019年5月9日刊行のシリーズ第9弾「ニューヨークの魔法は終わらない」で、シリーズが完結。著書はほかに「アメリカの家族」「ニューヨーク日本人教育事情」(ともに岩波新書)などがある。