元西武GG佐藤氏、今だから明かす北京五輪悪夢の3失策「韓国に気持ちで負けていた」

星野仙一さん、野村克也さんとの思い出を語る「G.G.佐藤」こと佐藤隆彦さん【写真:宮脇広久】

どん底から救った星野仙一氏の言葉「彼の野球人生をダメにしたくないから…」

 かつて「G.G.佐藤」の登録名で活躍した佐藤隆彦さんが、波乱万丈の人生を振り返る第2回。2008年北京五輪での悪夢の3失策とそこからの復活、引退後のセカンドキャリアについても語ったが、話はいつしか、中学時代の恩師で2月11日に亡くなった野村克也氏(元南海、ヤクルト、阪神、楽天監督)の話に行き着いた。

──日本代表として出場した2008年北京五輪。8月22日午前10時30分から行われた準決勝・韓国戦に「7番・左翼」で先発し、“悲劇”は起こった。北京の球場は、日本のそれとは勝手がだいぶ違っていた

「そういうところで、やりにくさはありました。日本のプロ野球はある意味、普段いい環境でやりすぎていますからね。芝の状態も悪かったですし、スタンドも仮設。太陽の位置が真上にあって、フライを捕ろうとするとちょうど目に入った。日本の球場では、太陽があんなところにあることはなかったので、方角的なことを考えて造っていないのかなと思いました。それに、予選リーグはずっとナイター。準決勝の韓国戦と3位決定戦の米国戦だけが昼間の試合で、しかもカンカン照りだったことにも戸惑いました」(日本は予選リーグ7試合中6試合がナイター。唯一10時30分開始だったカナダ戦に、佐藤さんは出場していない)

──まず2点リードの4回、左前打を“トンネル”し、失点につながった。

「まさにトンネルでした。打球には追いついていたのに、グラブの下を通っていった。あんな打球が捕れなかったのかと、不安になりました。点も入って詰め寄られてしまって、やばいぞ、これ以上エラーしたら負けちゃうぞって、思えば思うほど、不安で自信もなくなり、『飛んでくるな』という気持ちになりました」

──2点リードされて迎えた8回2死一塁では、左中間を襲った飛球をグラブに当てながら落球。タイムリーエラーとなった。

「打球を追いながら、『(センターの)青木、捕ってくれないかな』と思いましたよ。でも、追っていたらやっぱり『俺(の守備範囲)だな』と。イージーではなかったけれど、プロなら捕るべき打球でした。グラブに触ってますから」

──西武では右翼を守ることが多く、左翼は不慣れなだった

「とはいえ、西武でも何試合かレフトを守っていた。守備も自信がないわけじゃなかったんです」

──極度に緊張していたのか

「それまで味わったことがない緊張感でした。予選リーグともまた違いましたね。まあ正直、予選リーグでも韓国、キューバ、アメリカに負けていて、ギリギリの4位通過でしたから、(最終成績の4位は)順位通りといえば順位通りでした。でも、“負けたら終わり”ということで緊張しましたし、日韓戦って、それまでは他人事として見ていましたけど、実際に体験してみると、本当に独特な雰囲気でした。韓国側の応援は今も耳に残っています」

準決勝は家族も現地で観戦「両親や妻はいまだに、当時の映像を『見たくない』と」

──結局2-6で敗れた

「最後、韓国の右翼手がウイニングボールの飛球を捕った瞬間、そのまま感極まってうずくまった。あれを見たとき、悔しかったけれど、僕らとの思いの違いも感じました。僕が彼の立場だったら、捕った瞬間にああいう行動を取るかというと、取らないと思った。執念では向こうの方が上だったと、あの瞬間思いました。徴兵免除がかかっていたとか聞いていましたが、彼らの本心はわからない。しかし、あの態度を取ったということは、国を背負って日本を倒しにきていた。気持ちで負けていたと思います。韓国代表は国際試合で、マウンドに国旗を立てたり、嫌なこともするけれど、それくらい強い思いがある。日本はある意味、人がすぎる部分がある。裕福だし、幸せですから。国際試合には、そういう違いが国ごとにあることを理解した上で臨むべきだと思いました。侍ジャパンにも、そういう教育が大事ではないでしょうか。キューバがどういう環境で野球をやってきているのか、韓国がこれに勝ったらどうなるのか、知ることは大事だと思う。相手投手の球種などデータを研究するのは当たり前。その上で、相手のバックボーンまで知ってぶつかるのがいいと思います」

──準決勝は家族も現地で観戦していた

「父、母、それに第1子を妊娠中の妻も見ていました。僕はちょこちょこメディアに出していただいていて、結構平気なんですが、両親や妻はいまだに、当時の映像を『見たくない』と言うんですよ。僕は本人ですから、やってしまったことを誰のせいにもできないと割り切れる部分がありますが、周りは『もっとできることがあったんじゃないか』と思うのかもしれませんね」

──当時、奥様に「死にたい」とメールを送ったとか

「あの時はどん底に落ちました。『死にたい』という気持ちになったのは事実。“金メダル以外いらない”と掲げて臨んでいましたし、チームメートも星野(仙一)監督も目標にしていた。野球ファン、国民のみなさんも期待していた。それに応えられなかったことはつらかった」

──ところが翌日の3位決定戦・米国戦にも、左翼でスタメン出場。3点リードの3回、先頭打者の平凡な飛球を落球した。精神的に、あの日のスタメンだけは「勘弁してほしい」という心境だったのでは?

「そうですね。あの時の僕には、気持ちを切り替えられるメンタルがなかった。でも、後日に、人づてですが、星野監督が『彼の野球人生をダメにしたくないから、すぐにチャンスを与えた』とおっしゃっていたと聞いて、胸が熱くなりました。星野さん自身、監督として、他人の人生を心配しているような状況じゃなかったはずでしょう」

──実際、帰国後に最もバッシングを浴びたのは、指揮官の星野監督だった。親友の田淵幸一氏、山本浩二氏をコーチに迎えていたことが“お友達内閣”などと批判され、翌09年のWBCの監督就任も吹っ飛んだ

「星野さんは自分が“戦犯”だといわれるように持っていったのかもしれない。選手のせいにしないで、ボスに責任があるという方向に持っていったのも、星野さんの技量だと思います」

──翌09年、どん底の精神状態から這い上がり、打率.291、キャリアハイの25本塁打、83打点をマークできた理由は

「正直言って、僕自身だけの問題だったら平気なんですよ。逆に、それだけだったら、頑張れなかったかもしれないです。親とか妻の悲しい顔を見てしまった、ファンの人たちを裏切ってしまったという思い、誰かをもう1度喜ばせてあげたいっていう気持ちですね。野球選手以外でも、家族のために、娘のためにって働くことがあると思います。大切な人がいたからこそ、乗り越えられたんじゃないかなと思うんで、感謝しています。北京五輪後、最初の西武ドーム(現メットライフドーム)での試合で、ファンのみなさんがすごく暖かく迎えてくれて、『G.G.佐藤は、どんなときも俺たちのG.G.佐藤だ』というプラカードを見た時も、俺、もう1回頑張らなきゃと思いました」

現在は父が社長を務める会社「株式会社トラバース」で働く

──11年限りで西武から戦力外通告を受けた後、イタリアリーグのボローニャ、ロッテなどでプレーし、14年限りで現役引退。悔いはなかったか

「はい、やりきりました。完全に」

──父親が社長を務め測量、調査、地盤改良工事、不動産などを扱う「株式会社トラバース」に入社した。

「野球人生を全うできたのは父のお陰なので、何か恩返しをしたいと思った。そこで、父が大事にしている会社を守りたいと考えて、アポ取って、『入らせてください』って頭を下げました」

──現在の仕事の内容、やりがいは

「入社6年目、早いですね。千葉営業所長として、80人の部下の管理、営業支援。自分でも営業をしたり、地盤改良工事の現場に行ったりします。やりがいは、ビルや一戸建て住宅を扱っているので、お客様にとって一世一代のデカい買い物に携われることですね。最近は水害や地震も多い中、住む方に安心して住んでもらえたらうれしい。専門家として、しっかり説明して、安心して土地を買って安心して建ててもらえるお手伝いをしていきたいです」

──宅建士、保育士の免許も取得した

「宅建士は、(元西武監督の)伊原春樹さんも取得されていると聞きましたが、保育士を持っている元プロ野球選手は、他にいないんじゃないかなぁ。会社に空きスペースあるので、将来そこに保育園を誘致できないかと考えています。周りが住宅地なので、子供たちを預かる。それに『元プロ野球選手の保育士による運動教室』っていうのも、子供向けにやってみたい」

──現役引退後のセカンドキャリアに悩む野球選手が多い中、佐藤さんは生き生きとしている

「いいえ、会社を守りたいという気持ちは本当ですが、いまだに野球をやっていた時ほど、熱くなれるものがないのが正直なところです。プロ野球選手のときは、活躍したいとか、ホームランバッターになりたいとか、夢や目標が明確でしたから。勝敗がわかりやすいし、全て数字に出ますからね。かといって立ち止まっているのは嫌なので、宅建とか保育士とか、気になるものに手を出しながら、熱くなれるものが見つからないか、もっとやれることがあるんじゃないかと模索しています。人生の半分以上野球をやってきて、それが急になくなって不安にもなりました。そういう時には、目の前のできることをコツコツ積み上げるしかないんですよね。そもそも働くって、そういういうことなのかもしれないですけど」

──佐藤さんにとってオリンピックとは?

「それ、『逆境を乗り越える方法は?』と並んで、講演などで聞かれる“2大質問”です(笑)。結構考えるんですが、なかなか答えが出ない。野村監督が亡くなられて、いろいろ言われたことを振り返って、『人格形成』という言葉に思い当たりました。野村監督は『野球人たる前に、社会人として、1人の人間として成長なくして野球はうまくならない』とおっしゃっていました。『人格形成に終わりはなく、死ぬまで勉強。永遠に成長していかないといけない』と。で、日本のプロに入る前にアメリカに行ったのも、イタリアに行ったのも、そしてオリンピックという舞台も、人格形成のための経験の1つじゃないかと思えてきました。

 失敗してつらかったですけど、失敗したからこそ、失敗した人間の気持ちがわかるようになった。星野監督が失敗した人間をすぐに使ってくれた“男気”にも気付けた。あそこで成功していたら、天狗になっていたかもしれない。いま部下がたくさんできて、経験が生きている部分もあります。人格形成の1ページとしては、北京五輪があってよかったんじゃないかと思うようになりました。野村監督が亡くなられて、考えて、最近出た答えです」(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)

© 株式会社Creative2