ビリー・ジョエルと妻エリザベス「素顔のままで」の愛憎エピソード 1978年 1月21日 ビリー・ジョエルのアルバム「ストレンジャー」が日本でリリースされた日

レコード会社と音楽出版社、何がどう違う?

私がCBSソニーの洋楽ディレクターとして、ビリー・ジョエルのアルバムを最初に担当したものは1982年『ナイロン・カーテン』です。制作現場としては1989年の『ストーム・フロント』まで関わっていましたが、実は洋楽に異動前の職場、音楽出版部門時代でも多少関わりがありました。

1973年4月CBSソニーへ新卒で入社した私の最初配属先が、音楽著作権を取り扱う部門(エイプリル・ミュージック)でした。レコード会社は契約したアーティストが歌唱したものや演奏したものの音源を商品化してビジネスをしていきますが、この部門(音楽出版社)においてはアーティストではなく、契約した作家が主役です。

そこでは彼等が書いた作品(作詞・作曲)の著作権をビジネスにしています。たとえば、その曲が誰でもいいのですが、アーティストによってレコード盤に録音されたり、放送でオンエアされたり、演奏会で歌われたりすると、その使用者(レコード会社や放送局、公演主催者etc.)は必ず著作権徴収団体へ使用料を払います。日本では JASRAC が有名ですが、ここから権利元の音楽出版社に分配される著作権印税によって成立しています。

ビリー・ジョエルの音楽出版はエイプリル・ミュージック

つまり、シンガーソングライターの場合には、作家とアーティストが同一人物ということになります。アメリカCBS 内に April Blackwood Music という音楽出版社があり、ここの楽曲カタログの日本支部が、私が配属された音楽出版部門でした。この契約作家の中に、新人としてビリー・ジョエルが属していたということです。

とは言え、ひどいもので私は、入社した1973年に発売された『ピアノ・マン』時代のビリー・ジョエルにはあまり興味がなかったし、彼の才能に全く気が付かなかったです。この頃、洋楽マーケットではフィラデルフィアサウンドが大流行で、ザ・スリー・ディグリーズが全盛期を迎えていました。ビリーと言えば、全米No.1ソングを持つビリー・ポールの方が有名な時代でした。我々はこのカタログも管理していたので、仕事のほぼ100%をこちらに注いでいました。当時ビリーに興味がなかった私が、ここから数年後に洋楽部門へ異動して彼の担当になるのですから、やや皮肉なもの感じます。

アルバム「ストレンジャー」で大ブレイク、初来日公演も決定!

そのビリーですが、1978年1月『ストレンジャー』発売からは一気に状況が変化します。アメリカとは違う日本独自のシングル編成で、最初から「素顔のままで」、そして SONY のテレビCMのタイアップ付きで「ストレンジャー」と短い間に2連発のカットしています。特に「ストレンジャー」での口笛イントロのインパクトは日本人の感性を刺激していました。

発売タイミングでの1月のグラミー賞では「最優秀レコード賞」と「最優秀歌曲賞」を受賞し、これらの対象曲「素顔のままで」はアメリカでもチャート2位まで急上昇。ちなみにこの頃、私はまだ音楽出版部門に在籍していました。

まさに世界中でブレイクし始めたビリー・ジョエルでしたが、そういう中1978年4月に彼の初来日公演が決まりました。もちろんこれは発表即日完売。そして、この1か月前の3月にマネージャーでもあり妻でもあった、エリザベス・ジョエルが本人に先駆けて打ち合わせで来日したのです。

このとき日本で彼の音楽著作権を預かっている我々に対してある依頼がありました。我々からすれば、ビリーは契約作家です。だから、この依頼は洋楽部門ではなく、こちらに回ってきたのだと思います。彼女の依頼は、5月のビリーの誕生日にサプライズで贈りたいからオルゴールを作ってくれ、と。曲は「素顔のままで」。グラミー賞の最優秀歌曲賞は、対象シングル曲の作家に与えられるものですから、なおさら音楽出版社マターです。

自殺未遂2回! グラミー受賞曲「素顔のままで」の略奪愛エピソード

この曲「素顔のままで」に関しては、有名なエピソードがありました。エリザベスは、ビリー親友であり彼のバンド仲間の妻でした。独身だったビリーはその彼女に惚れちゃって禁断の関係でジョージとクラプトン状態に陥り、自殺未遂を2回するほど。結果、略奪愛ですが20代そこそこで彼女と結婚しています。その妻に対して、ある年の彼女の誕生に贈った曲が、この曲だったのです。ちなみに、この邦題、アルバム発売時は「そのままの君が好き」でしたが、シングルカットの際に「素顔のままで」に変更されています。

この曲は仲間内では知られた存在でした。素晴らしい曲なのでアルバムへの収録を何度も勧められますが、ビリーはあまりにもプライべート過ぎるという理由でこれを断ってました。この『ストレンジャー』の録音時に、同じマネージメントだったフィービ・スノウのプッシュと、プロデューサーであるフィル・ラモーンの強いサジェッションで、ビリーとしては渋々ですが、アルバムに収められることになりました。結果、この曲がグラミー受賞という最高の栄誉とビリーがブレイクする大きなきっかけになったのです。

エリザベスからの依頼を受けた我々は銀座の天賞堂に発注し、1か月後にはグランドピアノ型のオルゴールが完成しました。費用は当時10万円ほどかかったかと思いますが、自分の誕生日に贈られた曲を、今度は彼の誕生日にオルゴールにして贈り返す。素敵なプレゼントです。これを受け取ったビリーの嬉しそうな顔もイメージできます。

ビリー・ジョエルと妻エリザベス、続きはどうなった?

ビリー夫婦の「素顔のままで」には続きがあります。翌1979年2月、『ニューヨーク52番街』ツアーでヨーロッパレグの期間ですが、コンサート当日が彼女の誕生日、という日の出来事。今度はビリーが、ステージ上から、ショーの途中、客席にいる妻を見つめ「ハッピーバースデイ」を歌い出し、それに続けて「素顔のままで」を歌ったとのこと。エリザベスは感動で号泣。彼女の隣の席にいた私の上司がこれを目撃しています。

美しい話です… と言いつつも、これから数年後、変わらないでくれと願ったのに彼女は変わり、二人の間には埋めようもない溝ができ、1982年、『ナイロン・カーテン』を発表する前に離婚しています。この『ナイロン・カーテン』が今までとは異質で、内容も重いアルバムだったということは、当時のベトナム後遺症に悩むアメリカをテーマにしたことも含め、ビリーが離婚協議中だったから… と思うと理解ができます。

加えてこの後、当代きっての美人モデル、クリスティ・ブリンクリーと付き合い始めた際に作った『イノセント・マン』の楽しさ、陽気さも容易に理解できるというものです。ビリーは結構へそ曲がりでやんちゃな性格ですが、その時の自分の心に忠実でもある、ということです。

11PM でも強力プッシュ! アルバム「ストレンジャー」100万枚突破!

さて、1978年5月に私は社内異動で洋楽部門へ移りました。そこでの最初の業務は宣伝で、TV や新聞など大型メディア担当しました。特に覚えているのが日本テレビ系列の『11PM』。いわゆる水曜イレブンと呼ばれた愛川欽也さんの曜日でした。洋楽紹介コーナーもあり、ここではプロデューサー以下、皆さんがビリーを応援してくれ、特に「ストレンジャー」の映像は何回も流してくれました。

こういう全国ネットの大型番組において、同じ映像を何度も流すなんてことは極めて奇跡的なこと。この効果もあり、アルバム『ストレンジャー』は、当時として初めて100万枚を突破し、社内新記録を達成したのです。

1978年4月のビリー初来日公演にまつわるエピソードについては、次回詳しくご紹介しましょう。

カタリベ: 喜久野俊和

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