インドの狂虎 タイガー・ジェット・シン、魂の入場曲「サーベルタイガー」 1979年 8月26日 馬場・猪木VSブッチャー・シンの試合が「プロレス夢のオールスター戦」で行われた日

希代の天才ヒール、タイガー・ジェット・シン

俺は、トレードマークのターバンを巻き、自身の分身ともいうべきサーベルを片手に入場する。逃げ遅れたヤツは、観客であろうと容赦なく殴らせてもらう。俺の名はタイガー。といっても金色のマスクをかぶって、ピョンピョンと飛んだり、跳ねたりしているヤツとは一緒にしないでくれ。

俺が手にしたものは何でも凶器に変身する。ビール瓶やテーブル、スパナ、ゴング、チャンピオンベルトなどは、ほかのヒール(悪役)でも凶器にするだろうが、俺は違う。客から奪った傘、客席に落ちていた空き缶、周りに置いてあるほうきや脚立、汗をふくためのタオルですら凶器と化す。

なかでも俺の天才ぶりを示しているのがパイプ椅子だ。多くのレスラーがこれを使用するとき、座面を相手の背中にたたきつけるが、俺はしない。椅子のパイプ部分で、相手の正面から首筋を狙うのだ。このほうが恐怖心も煽るし、ダメージも大きい。なんと効率的な攻撃だろうか。そう、俺は希代の天才ヒール “タイガー・ジェット・シン様” だ。

場外乱闘の魅力、ファンの興奮度もアップ!

俺の活躍によって、プロレス会場も変わった。リング外に設置してあるフェンスを知っているだろう? これは、「観客の安全を確保するため」と称して、1980年に新日本プロレスが最初に設置したものだ。

今ではどんな会場でもお目にかかるこのフェンスのおかげで、場外乱闘のエリアが小さくなってしまったが、俺はパイプ椅子をフェンスに投げつけるというパフォーマンスを開発、ファンを大喜びさせた。そのほかにも、フェンスに相手を飛ばす、相手の額を叩きつけるなど、多くのレスラーが場外乱闘で荒業を見せるようになり、ファンの興奮度は否応なしに高まるようになった。プロレスの場外乱闘の魅力は、まさに俺のおかげで出来上がったのだ… フフフ。

プロレスの基礎は正統派、師匠はフレッド・アトキンス

プロレスの古きよき時代、1960年代後半にデビューした俺は、ジン・キニスキーやブルーノ・サンマルチノといった、数々のアメリカントップレスラーたちと対戦、その実力を磨いてきた。地元のトロントではベビーフェイス(善玉)としてリングに上がり、チャンピオンベルトを腰に巻いたこともあるぜ。

しかし、それは当然と言ってもいいだろう。実は、俺のプロレスの基礎は正統派。ジャイアント馬場も指導したフレッド・アトキンスにみっちりと仕込まれた。だから俺は相当に強い。

でもなあ、ベビーフェイスは、やっぱり面白くない。やるからには、やっぱりヒールじゃなきゃいけねえ。あの頃の俺はヒールとして暴れたくてウズウズしていたんだ。そんな中、東洋の島国に住む、ペリカンみたいなアゴをしたヤツから声がかかった。後々、つき合いの長くなるアントニオ猪木だ。

シンのためにサーベルを用意したのはアントニオ猪木

当時、猪木が旗揚げした新日本プロレスは、外国人レスラーを招聘するルートがほとんどなかった。そこで、猪木たちが考えたのは、日本で無名の外国人レスラーを呼び、育てること。アメリカでの俺の活躍を知ったのだろう。新日からオファーが届いたのは、1973年のことだ。そして初来日。それ以後、俺と日本の長~い付き合いが始まることになった。

初めて新日の会場に行った日、俺の試合は組まれていなかった。「取り敢えず、雰囲気を見てくれ」ということだった。でもなぁ、あまりにもつまらない試合が続いて少々飽きていた。それで、思わず試合に乱入しちまったんだ。リングにいた日本人レスラーをボコボコにしてやったぜ。

「タイガー・ジェット・シンは、新日が招いたわけではなく、勝手に日本に来た」と発表していたから、「謎の狂人」などとスポーツ新聞で大騒ぎになり、俺の存在は広く知られるようになった。

猪木は、俺が天才的なヒールであることを見抜いた。その証拠に後日、俺のためにその後の分身ともなるサーベルを用意してきやがったんだ。ヤツのセンスもなかなかだぜ。だがなあ、新日のヤツらも、マスコミも、俺が本当にクレイジーだということにまだ気が付いていなかった。俺は、もっともっと暴れたかったのだ。

流血!新宿の伊勢丹前で猪木と倍賞美津子を襲撃

ある日、猪木が新宿・伊勢丹に買い物に出かけるという情報をつかんだ。1973年11月5日のことだ。そこで、俺は猪木を街中で襲うという計画を立てた。襲撃は見事に成功。当時、猪木の奥さんだった倍賞美津子さんには悪いことをしたが、彼女の目の前で、猪木をボッコボコにして、血だるまにしてやった。一般の目撃者から警察にも通報されたらしく、大騒ぎになったぜ。

襲撃の翌日には、一般新聞もこの件を報道し、俺のことを「本当に狂っているのではないか」と褒め称えた。そう、プロレスファンだけでなく、日本全体が「狂っている」という褒め言葉を俺にかけるようになったのだ。これ以後、俺が出場する新日のチケットは飛ぶように売れ、流血必至の猪木との抗争は目玉となり、俺は「狂虎」と呼ばれるようになった。

ファンが急増!新日本プロレスの新たなスタイルを確立

それまで、“ストロングスタイル” とか “正統派” で売っていた猪木も俺との戦いで喧嘩ファイトを見せるようになり、猪木、いや、新日本プロレスの新たなスタイルが確立し、ファンが急増した。つまり、俺が登場したおかげで、猪木も新日も救われたってことだ。

俺の試合が終わると、『ワールドプロレスリング』を放送していたテレビ朝日には、毎週のように抗議電話が集中し、数十台あった電話がすべてパンクしたらしい。俺のファイトが日本人に大うけだった証拠だろう。ハッハッハッ!!

だから、その後新日に来るようになったスタン・ハンセンもハルク・ホーガンも、アンドレも、俺のおかげで人気者になれたっていうことだ。ヤツらにも少しは感謝の気持ちをもってもらいたいねえ。そうか、アンドレは死んじまったか……。

伝説のタッグマッチ、馬場&猪木 VS シン&ブッチャー

そんな俺の人気にあやかって企画されたのが、1979年8月26日に開催された『プロレス夢のオールスター戦』だ。当時の日本のプロレス3団体が参戦し、文字通り「夢の対戦」が組まれたのだ。そのメインは、馬場&猪木のBI砲 VS 俺とブッチャーのトップヒール・タッグマッチだ。どうもファン投票で第1位になったらしい。俺はブッチャーのことが大キライだが、ファンの支持があったのでは仕方ない。このあたりの話は、『凶悪レスラーの入場曲「吹けよ風、呼べよ嵐」俺のプライドはズタズタだ!』を読んでくれ。

このオールスター戦も、俺のおかげで大いに盛り上がった。今ではすっかり伝説のタッグマッチとなっている。80年代に突入する直前、プロレス人気はますます高まっていた。

さて、この時代から、俺の入場曲は「サーベルタイガー」だ。

全日時代を除いて、その後、ハッスルに登場したときにも使用している魂の曲。ぜひ、ここで今一度聴いて、血をたぎらせた若き日の思いを存分に味わってくれ。

※2017年9月14日に掲載された記事をアップデート

カタリベ: 小山眞史

© Reminder LLC