知られざる「1993年、Jリーグ開幕」の真実。カズがあの日から伝え続けるメッセージ

27年前のあの日から、すべてが始まった。1993年5月15日、国立競技場で華々しく開幕したJリーグは、いまや56クラブにまでその数を増やし、日本全国に裾野を広げている。昨シーズンには総入場者数が初めて1100万人を超えるなど着実な成長も見せている。それでも、あの時、あの場所にしかないものが、確かにあった。
5日(日)19時からNHK BS1で特別に再放送される、あの伝説の一戦。その舞台裏で何が起きていたのか? 先人たちが燃やしていな情熱の源泉は何だったのか?「Jリーグ」という日常が失われているいまだからこそ、あらためて問い直してみたい。

(文=藤江直人、写真=Getty Images)

<文中敬称略>

涙を流し、敵味方の垣根を越えて抱き合った

近隣住民との間で騒音問題を引き起こし、数カ月後には使用禁止や販売自粛の措置が取られるチアホーンの甲高い音色が間断なく響いてくる。黎明期の名物応援グッズが一斉に、旧国立競技場を揺るがすほど吹き鳴らされたのはJリーグの初代チェアマン、川淵三郎が開会宣言を終えた直後だった。

「スポーツを愛する多くのファンの皆さまに支えられまして、Jリーグは今日ここに大きな夢の実現に向かってその第一歩を踏み出します。1993年5月15日、Jリーグの開会を宣言します」

メインスタンド下のウォーミングアップエリアには、歴史に残る開幕戦で対峙する2つのクラブ、ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)と横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)の選手たちがいた。キックオフへ向けて体を温めていた19時に、開幕セレモニーが華やかに幕を開けた。

幻想的な雰囲気をつくり出すさまざまな色のレーザー光線が、ウォーミングアップエリアにも差し込んでくる。人気ロックバンド、TUBEのヴォーカル・前田亘輝が斉唱した国歌の『君が代』と、ギタリスト・春畑道哉が生演奏したJリーグの公式テーマ曲『J’S THEME』も響きわたってくる。

そして、ピッチへの入場へ向けて、両チームの先発メンバーが顔を合わせたときだった。マリノスの司令塔、木村和司が泣いていた。ドリブラーの水沼貴史も、もう我慢できなかった。ヴェルディの最終ラインを束ねる加藤久も涙腺を決壊させながら、敵味方の垣根を越えて2人と抱き合った。

一日千秋――。待ち焦がれる気持ちが著しく強いことを意味する四字熟語が、これほどピッタリと当てはまる光景はないだろう。このとき、木村は34歳。水沼は32歳。そして、加藤は37歳。冬の時代と呼ばれてきた、前身の日本サッカーリーグ(JSL)を必死に支えてきた功労者たちだった。

選手たちのほとばしる情熱がピッチの上で激しく交錯した

プロ時代の幕開けを告げる特別な一戦へ向けて、Jリーグはさまざまな施策を打った。プロ元年の1993シーズンに参戦した10クラブ、いわゆる「オリジナル10」で組まれる5つの開幕節カードのうち、ヴェルディ対マリノスだけを5月15日の土曜日に実施。NHK総合テレビで生中継した。

キックオフが19時半となったのは、NHK総合テレビが30分間のニュース番組を19時から放送するためだ。ヴェルディのホームゲーム扱いだったが、当時本拠地としていた等々力陸上競技場ではなく、日本サッカー界の聖地と呼ばれていた旧国立競技場が特例で会場として選ばれた。

チケットは全席指定席とされた。希望者は郵送で申し込むシステムが採用されたなかで、高まっていた社会的な関心も反映されたためか、倍率は何と約14倍に達した。当選者の名前が印刷された特製チケットを手にしてスタンドを埋めた、ファン・サポーターは実に5万9626人を数えた。

特別な舞台を戦う主役に指名されたヴェルディとマリノスは、JSLの終盤から前者は読売クラブ、後者は日産自動車として2強時代を形成していた。例えば最後の4年間は、1988-89シーズンから日産自動車が2年連続で国内三冠を独占し、1990-91シーズンからは読売クラブがJSLを連覇していた。

もっとも、JSL時代はスタンドが満員で埋まる光景は夢物語だった。読売クラブは実質的なプロ集団として異彩を放ち、木村も国産プロ第1号になったが、リーグ全体のプロ化は構想が浮かんでは消えていた時代。日本代表もワールドカップはおろか、オリンピックの舞台にも立てなかった。

だからこそ、ウォーミングアップをしながら、別世界のように盛り上がる国立競技場の雰囲気を感じ取ったベテランたちは感極まった。木村と加藤は1994シーズン限りで、水沼もその翌年に現役を引退している。何度も夢に見てきたプロの舞台に、キャリアの終盤で立てたことに心を震わせた。

プロ元年の戦いにかけていた思いが強すぎたからか。1-2と逆転された状況で迎えた79分にフォワードとの交代でベンチへ下がった加藤は、松木安太郎監督の采配に不満を募らせ、ラモス瑠偉らも同調して内紛へと発展。加藤は7月に移籍第1号選手として、清水エスパルスの一員になっている。

そして、試合はそのままのスコアでマリノスに軍配が上がった。JSL時代の1987年に始まり、最終的には19試合にまで伸びたヴェルディ戦におけるマリノスの連続不敗神話は、開幕戦の時点で17(13勝4分)に到達。NHK総合テレビで記録された平均視聴率は32.4%にのぼった。

記録以外の記憶がセピア色に染まりつつあるなかで、両チームの選手たちがほとばしらせる情熱がピッチの上で何度も、激しく交錯したことは鮮明に覚えている。勢い余って28分にイエローカードを提示され、歴史に残る第1号選手となったのはヴェルディの左サイドバック、31歳の都並敏史だった。

カズが語る「技術や戦術ではない、根本的なもの」

「Jリーグ元年のころとはすべてが違うので、いまとはなかなか比べられないんですけどね」

1993シーズンに在籍した全選手のなかで、いまも現役としてプレーする2人のうちの一人、FW三浦知良(現・横浜FC)がこう前置きしたうえで、当時を振り返ったことがある。Jリーグが産声をあげてからちょうど四半世紀の節目を迎える、2018シーズンの開幕を直前に控えたときだった。

1996年のアトランタオリンピックで、サッカー王国ブラジルを撃破する千金のゴールを決めたMF伊東輝悦(現・アスルクラロ沼津)も、東海大一高からエスパルスへ加入したルーキーとして登録されていた。しかし、公式戦のピッチに立ったのは天皇杯の3試合だけだった。

爆発的な人気が社会問題にまで発展したリーグ戦のピッチに立ったのは、ヴェルディのキャプテンを任命された当時26歳のカズだけとなる。左腕に巻かれたキャプテンマークは婚約中だったりさ子夫人がひのき舞台のために用意した、エルメス製のスカーフを特別に仕立て上げたものだった。

「いまはどうしても技術や戦術というものが先にくることが多いんですけど、勝負ごとの根本的な部分にあるものはやはり気持ちだと思いますから。あのころは何とかサッカーをみんなに見てもらいたい、サッカーがどのようなものなのかをわかってもらおうと、必死になってプレーしていたので」

カズがこう振り返った1993シーズンは、FIFAワールドカップ・アメリカ大会出場をかけたアジア1次予選が5月上旬まで行われていた。日本代表を優先させた関係でJリーグ開幕が5月15日に設定され、選手たちは延長戦まで行われたリーグ戦を週に2試合、故障と背中合わせで臨む過密日程のもとで戦った。

例えば日本代表でも不動の左サイドバックだった都並は、1stステージのサントリーシリーズ中に左足首を亀裂骨折。必死にリハビリを重ね、負傷箇所にボルトを埋め込み、痛み止めの注射まで打って10月のアジア最終予選に帯同したが、出場がかなわないまま敗退を味わわされている。

その最終予選で最多となる4ゴールをあげながら、「ドーハの悲劇」とともに無念の涙を流したカズは、リーグ戦で日本人最多、全体でも得点王のラモン・ディアス(マリノス)、2位のアルシンド(鹿島アントラーズ)に次ぐ20ゴールをあげた1993シーズンを振り返る言葉を、こう紡いでいる。

「お互いが全面的に勝負にこだわった、最後まで戦い抜く試合を本当に毎回のように。どの試合も技術や戦術というものがどうだったのかは、いまと比べてなかなか評価するのが難しい。それでも、1年目はみんなのなかに本当に情熱というものがあったと思うので」

27年の時を超えて、受け止めるべきメッセージ

技術や戦術を超越した、カズの言う情熱を象徴する一戦がヴェルディとマリノスが対峙した開幕戦となる。いま現在の選手たちに情熱がないわけでも、ましてや必死さがないわけでもない。それでも、日本にプロリーグがある光景が当たり前になったなかで、いつしか忘れがちになることもあるだろう。

キックオフ直前に万感の思いを募らせ、涙まで流した先人たちがいたことを。ようやく灯したプロという炎を絶やしてなるものかと、ピッチに立った誰もが使命感を背負ってプレーした時代がいま現在に至る礎になっていることを。当時をリアルタイムで知らない選手たちが、そしてファン・サポーターが増えてきたからこそ、Jリーグ元年が発つメッセージをあらためて受け止める必要がある。

「そういう初心というものに、もう一回。僕自身もそうですけど、みんながハングリーになってやることが大事じゃないかなと思っています」

カズがこんな言葉を残してから2年あまりがたったいま、Jリーグは未曾有の事態に直面している。世界中で猛威を振るい続ける新型コロナウイルスの影響を受けて、2月下旬から中断を余儀なくされているJリーグは、公式戦の再開へ向けためどが立てられない状態にある。

今月下旬からJ3、J2、そして5月9日のJ1と段階的に再開させていく計画は、新型コロナウイルス禍がさらに悪化したという村井満チェアマンの判断のもとで、一転して白紙となった。予断を許さない状況が続くなかで、多くのJクラブが数週間単位で活動を停止する決定を下している。

日常生活から消え去って久しいからこそ、サッカーが持つ価値の大きさがわかる。再開される瞬間を至福の喜びで迎え、サッカーを取り巻くすべての人々の間で情熱と感動とを共有していくためにも、再放送される伝説の開幕戦を彩った選手たちの一挙手一投足を脳裏に焼きつけたい。(文中敬称略)

<了>

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