「移住県」ではなく

 その年、カラーテレビが売り出され、ダッコちゃん人形がはやった。「所得倍増」が流行語になり、戦後の高度成長期が幕を開けた。ざっと並べても、時代の活気が伝わってくる。1960(昭和35)年。今から60年前に当たる▲本県の人口はこの年、176万人でピークに達している。産業の3本柱のうち、造船と水産業には順風が吹いていたが、炭鉱業は下火になっていた▲弊社が発行した戦後の記録誌を開けば、この頃、県北のヤマの男たちは次々と職を離れ、大都市や南米ブラジルに新天地を求めた、とある▲本県は全国一の「海外移住県」とされ、移民数は年間で1千人以上に上っている。経済成長という光は強く、影もまた深かった▲今年3月1日現在の推計人口を見てみれば、県全体では132万人で、「光と影」の60年前から4分の1ほど減っている。長崎市の日本人の転出超過数(転出者が転入者を上回った数)は昨年、全国の市町村で2年続けて最多だった。先ごろの紙面には、対馬市の人口が3万人を割ったという記事もある▲60年の歳月を経て、なおも「移住県」と呼ばれるのは誰も望むまい。この春も進学や就職で、多くの若い人が県外へと第一歩を踏み出した。難問と分かりながらも、異称ならば「いつか戻りたい長崎県」にと、そう念じる。(徹)

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