ソウル界のレジェンド、ビル・ウィザースが81歳で逝去。その半生を辿る

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Illustration by Kelsee Thomas

「Lean on Me」「Lovely Day」「Ain’t No Sunshine」など不朽の名曲を作曲したことで知られるソウル界のレジェンドであるビル・ウィザース(Bill Withers)が、心臓の合併症で亡くなったと2020年3月31日に家族が発表した。81歳だった。

「私たちは最愛の献身的な夫であり父でもあった彼の喪失に打ちのめされています」と彼の家族は声明で述べている。「詩と音楽を駆使して世界とつながろうとする孤独な男は、正直に生き、人々をお互いに結びつけてきました。彼が親密な家族や友人とのプライベートな生活を送っていたように、彼の音楽は永遠に世界に残ります。この困難な時代に、彼の音楽が癒しとエンターテイメントを提供し、ファンの皆さんが愛する人たちをしっかりと抱きしめられることを祈ります」

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残り続ける音楽

1985年までに8枚のアルバムを発表して表舞台から退いたウィザースは、音楽界のみならずカルチャーにも忘れられない痕跡を残している。「Lean On Me」「Grandma’s Hands」「Use Me」「Ain’t No Sunshine」「Lovely Day」などの曲は、現代のカルチャーに組み込まれており、数え切れないほどカバーされ、映画やテレビ、コマーシャルでも繰り返し使用されている。

それらの曲はどれも1970年代の限られた期間に書かれたものだが、時代を超越したものであることは証明する必要もないであろう。直近では、「Lean On Me」がここ数週間でも、新型コロナウイルス蔓延の時代に希望と連帯のアンセムとして再び浮上していた。

音楽を始める切っ掛け:ルー・ロウルズとの出会い

「彼は最後のアフリカ系の普通の人なんです」。ザ・ルーツのクエストラヴは2015年に米ローリング・ストーン誌にこう語っている。「マイケル・ジョーダンの垂直跳びは誰よりも高くなければならない。マイケル・ジャクソンは重力に逆らわなければならない。その一方で、(アフリカ系の)私たちはしばしば原始的な動物としても見られている。私たちは真ん中に、普通にいられることはないんです。(その中で)ビル・ウィザースは黒人にとって、ブルース・スプリングスティーンに最も近い普通の存在なんです」

6人兄弟の末っ子であるウィザースは、大恐慌の末期にウェストバージニア州スラブフォークで育った。彼は高校卒業後に海軍に入隊し、退役後はカリフォルニア州サンタクララ郡で牛乳の配達人として、その後には飛行機に便座を取り付けたことで有名になった飛行機の部品工場で働いていた。偉大なヴォーカリストのルー・ロウルズが出演するオークランドのナイトクラブを訪れるまで、音楽はウィザースの人生の中でごく小さなものでしかなかった。ビル・ウィザースはその時の思い出をこう語っている。

「ルー・ロウルズは遅刻していて、マネージャーは行ったり来たりしていました。彼がこう言っていたのを覚えています。“あいつに週2,000ドルも払っているのに時間通り現れやしない” って。そのナイトクラブで素敵な女性を探していたけど、時給3ドルの私には誰も興味を持ってくれなかった。そこにルー・ロウルズが入ってくると、全ての女性たちが彼に話しかけにいったんです」

独学での作曲とブッカー・T

その体験を受けて、ウィザースは安物のギターを買って独学で弾き語りをし、工場でのシフトの合間に曲を作り始めた。1972年にNMEにはこう語っている。

「クラブをぶらつくようになり、歌いたいと思うようになったんです。歌手なら誰でもそうするべきだと思ったから、自分で曲も書きました。工場内に漂うグラスファイバーの粉塵から顔を守るためにマスクをしていたし、昼休みには体調を整えるためにランニングをしていた。他人からは“あのレコードを作りたいと思っている奴は変人だ”と思われていたと思います」

デモテープはサセックス・レコード(Sussex Records)の重役クラレンス・アバントの手に渡った。ウィザースが知らないうちに、プロデューサーのブッカー・T・ジョーンズとアルバムを録音することが決まり、彼はロサンゼルスのコンウェイ・スタジオに来るように連絡を受けた。ブッカー・T・ジョーンズは2019年の自伝『Time Is Tight』の中でこう記している。ブッカー・Tはウィザースの音楽を聞くや否や、ビル・ウィザースの楽曲録音のために、ブッカー・T&ザ・MG’sのメンバーだったドナルド・”ダック”・ダン、アル・ジャクソン、そしてギターのスティーヴ・クロッパーが不在だったので、その代わりにスティーヴン・スティルスらを集めた。

彼らが最初にとりかかった曲の1つ「Ain’t No Sunshine」はビル・ウィザースが1962年のジャック・レモン=リー・レミックの名作映画『酒とバラの日々』をテレビで見た後に書いたと言われている失恋の物語だった。

このセッションの間に録音された1971年のアルバム『Just As I Am』はデビューながらR&Bチャート9位、ポップ・チャートでもTOP40入りの大ヒットを記録し、ウィザースは一夜にしてスターになった。彼は1972年に発表した『Still Bill』でさらに大きなセンセーションを巻き起こし、R&Bチャートでは1位、ポップ・チャートでは4位を記録した。そのアルバムのファースト・シングルがかの有名な「Lean On Me」だった

黒人差別と引退の決意

しかし、名声はウィザースには合わなかった。彼はツアー生活を嫌っており、ビジネスマンへの不信感から、マネージャーと一緒に仕事をすることを嫌がっておりこう語っている、

「最初の頃は数ヶ月間マネージャーと一緒に仕事をしていたけど、ガソリンで浣腸をされたような気分でした。誰も私の利益なんて第一に考えていなくて、駒のように扱われていると感じた。私は自分自身で生きることが好きなのに」

1975年にサセックス・レコードが倒産すると、ビル・ウィザースはコロンビア・レコードに移籍した。しかし、それは彼の悲惨さに拍車をかけるだけだった。ローリング・ストーン誌にその時のことをこう語っている。

「A&Rの担当者に会ったんですが、そいつは最初にこう言いやがりました “君の音楽も黒人の音楽も好きになれない” って。あいつを殴らなかった自分を誇りに思っています」

彼はコロムビア・レコードで5枚のレコードを録音し、ラジオでヒットした「Lovely Day」や、全米シングルチャート2位を記録したグローヴァー・ワシントン・Jrとの「Just The Two of Us」は今でもラジオでかかり続けている。しかし、彼の心はもはや仕事とは離れてしまったいた。1985年のアルバム『Watching You Watching Me』のリリース後、彼はもう十分だと引退を決意した。幸いなことに、賢明な不動産投資と初期の作品からの印税で、経済的な問題はなかった。

引退後も消えることのない影響力

引退してもビル・ウィザースの影響力は絶大であった。彼は2015年にスティーヴィー・ワンダーによってロックンロールの殿堂入りを果たし、彼の音楽はカバーされて続け、ブラック・アイド・ピーズ、ウィル・スミスらによってよってサンプリングされ、ブラックストリートは1996年の全米1位のヒット曲「No Diggity」で「Grandma’s Hands」のイントロをサンプリングしている。

4月3日のビル・ウィザース死去が報じられると、ソーシャルメディア上では彼への追悼のコメントが続々と投稿されている。ブライアン・ウィルソンは「ビル・ウィザースが亡くなったことを聞いてとても悲しいです。彼は“ソングライターの中のソングライター”であり、“Ain’t No Sunshine”や“Lean On Me”など多くの名曲を残してくれました。本当に悲しい。ビルの家族に愛と哀悼の意を」。

レニー・クラヴィッツもこうコメントしている。「ビル・ウィザースよ、安らかに眠ってください。あなたの声、歌、そしてすべての表現は、私たちに愛と希望と強さを与えてくれました。私の魂はいつもあなたの音楽で満たされています。あなたの謙虚さは、私たちをより良い場所へと運んでくれたあなたの力の深さを示していました。あなたは今も、そしてこれからもビルでいつづけます」。

Written By Tim Peacock