もしグリフィーJr.がメッツへのトレードを受諾していたら

殿堂入りの名外野手、ケン・グリフィーJr.について語るとき、常に「もし彼が故障なくプレイしていたら、バリー・ボンズに代わってハンク・アーロンの記録を塗り替えることができていただろうか」という「ifストーリー」が付いて回る。日本時間4月7日、メジャーリーグ公式サイトでは、マイケル・クレアがグリフィーJr.に関する別の「ifストーリー」の特集記事を公開した。それは「もしグリフィーJr.がメッツに移籍していたらどうなったか」というものだ。

グリフィーJr.が1999年オフにマリナーズからレッズへトレードで移籍する際、マリナーズはレッズよりも先にメッツとのトレードで合意に達していた。その内容は、メッツがグリフィーJr.を獲得し、オクタビオ・ドテル、アーマンド・ベニテス、ロジャー・セデーニョの3人をマリナーズへ放出するというものだった。

しかし、グリフィーはメジャーで10年以上プレイし、なおかつ直近5年間を同じチームで過ごしている選手に与えられるトレード拒否権を行使してメッツへの移籍を拒否。最終的にはマイク・キャメロン、ブレット・トムコ、アントニオ・ペレスとのトレードでレッズへの移籍が決定した。

もしグリフィーJr.がメッツへ移籍していたら、2000年にメッツがワールドシリーズへ進出することはなかっただろう。なぜなら、レギュラーシーズンで15勝を挙げ、カージナルスとのリーグ優勝決定シリーズで16イニングを無失点に抑えてMVPに輝いたマイク・ハンプトンを獲得することができないからだ(メッツはハンプトンとデレク・ベルを獲得する対価としてドテルとセデーニョを含む3選手をアストロズへ放出した)。

そして、メッツへ移籍しなかったハンプトンをダイヤモンドバックスが獲得していただろう。ダイヤモンドバックスは球団創設2年目の1999年にポストシーズン進出を果たし、オーナーのジェリー・コランジェロはさらなる補強を目指していた。実際には、2000年6月にフィリーズからカート・シリングを獲得し、翌2001年の世界一へと繋げたが、グリフィーJr.がメッツへ移籍していれば、ランディ・ジョンソンとシリングの剛腕コンビは誕生していなかったかもしれない。

また、メッツは2000年終了後にハンプトンがフリーエージェントとなってロッキーズへ移籍した補償として2001年ドラフト全体38位の指名権を獲得し、デービッド・ライトを指名。もしグリフィーJr.がメッツへ移籍し、ハンプトンがダイヤモンドバックスに加わっていれば、ライトはダイヤモンドバックスに入団することになっていたかもしれない。

さらに、ダイヤモンドバックスが獲得しなかったシリングをカージナルスが獲得し、ダリル・カイル、アンディ・ベネスとの強力投手陣を武器に2000年のワールドシリーズを制していた可能性もある。実際、カージナルスがシリングの交換要員としてマット・モリスとJ.D.ドリューの2人をオファーしていたことが報じられている。1997年にフィリーズからのドラフト全体2位指名を拒否したドリューだが、グリフィーJr.がメッツへ移籍していれば、フィリーズに入団する可能性もあったというわけだ。

最後に、グリフィーJr.がメッツへ移籍していれば、2001年にマリナーズが116勝を挙げることはなかっただろう。グリフィーJr.とのトレードでドテルとベニテスを獲得したマリナーズは佐々木主浩の獲得には動かなかっただろうし、イチローと鉄壁の右中間コンビを形成するキャメロンをレッズから獲得することもなかったからだ。

ただし、グリフィーJr.がメッツへ移籍していたとしても、マリナーズに残留していたとしても、ワールドシリーズ制覇のチャンピオン・リングを手にすることはなかっただろう。クレアは「決して変わらないものもある」という一文で「ifストーリー」の特集記事を締めくくっている。

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