「3つの偶然」で世界最高峰の舞台に? 日本人初のNHL、福藤豊の「偶然を必然に変える」生き様

18歳で日本代表に初選出されてから約20年もの間、日の丸の責任を背負い続けてきた男は、こう口にする。

本当にそれ、やってみなくていいの――?

福藤豊は、NHLでプレーした初めてにして唯一の日本人だ。幾重にも折り重なった数奇な運命が、日本アイスホッケー界の生けるレジェンドを世界最高峰の舞台に導いた。だが、それは単なる偶然ではない。偶然を必然に変えたのは、この男の生き様だった。

(インタビュー・構成=沢田聡子、撮影=高須力)

「挑戦すらさせてもらえなかった」時期も、必要な経験だった

H.C.栃木日光アイスバックスの守護神・福藤豊は、日本人として初めてNHLでプレーしたアイスホッケー選手である。

東北高校を卒業後、2001年4月に当時実業団の強豪チームだったコクドに入社した福藤は、コクドの留学制度により、2003-04シーズン、ECHL(※)でプレーしている。
(※NHLの1つ下のリーグがAHL<実質2部>、そのさらに1つ下のリーグがECHL<実質3部>)

その後2004年6月、NHLロサンゼルス・キングスからドラフト8巡目(全体238位)で指名を受け、2005年8月にキングスと契約(AHLとの2ウェイコントラクト契約)。そして2007年1月13日(現地時間)、セントルイス・ブルース戦の第3ピリオドから出場を果たした。

日本人としてただ一人、世界最高峰のリーグに出場(NHLでは全部で4試合に出場)した福藤が、人生の岐路で大切にしてきたことはなんだったのだろうか――?

――最初にアメリカのリーグでプレーした2003-04シーズンを終えて帰ってきた時、頬がげっそりとこけていた印象があります。

福藤:今思えば大変な経験だったし、今だからこそ「必要だった経験なのかな」とは思えるんですけど、当時はとにかくきつかったですね。試合に出られなかったのが、一番きつかった。自分がアメリカでやっていくためのモチベーションが見いだせず、チームメイトとしてもなかなか受け入れられない。アメリカで生活していくことに慣れるのにも時間がかかっていたし、そういったことに対して嫌気が差したわけではないけど、大変でしたね。その中で自分をどう出せば試合に出られるかもまったく分からない状態だったので、結構きつかったかな。

――当時のつらい状況は福藤さんの力の問題ではなく、立場の問題が大きな原因ではないでしょうか?

福藤:最初から、3番手のゴーリー(アイスホッケーでのGKの名称)という扱いでした。マイナーリーグで3番手のゴーリーを置いておくことは、なかなかないんです。僕もどういう契約で行っているのか詳しく聞かされていない状態で、最初から与えられた場所がそこだった。そこは自分の渡米前のコミュニケーション不足もあったのですが、試合に出る・出ないの挑戦すらさせてくれない状態だったので、正直戸惑いましたね。

――日本に一度戻ってから、今度は2004年6月にドラフトで指名されて再びアメリカに行くことになりました。

福藤:アメリカでの最初の1年は、つらいながらもシーズン後半で試合出場も果たして、チームメイトとも仲良くなってきた時に帰ってきていました。ですから自分でも最終的には手応えを感じていたし、「自分がここでできる」という自信もありました。2度目の渡米はドラフトされたという土台もあり、いいタイミングではあったと思います。

――その後、2005年8月にNHLのロサンゼルス・キングスと契約するチャンスが巡ってきますが、どう受け止めましたか?

福藤:アメリカ2年目はECHLで44試合に出場して27勝を挙げることができ、手応えは感じていたのですが、最終的にプレーオフ前に膝をけがしてしまいました。ただ正式に契約する前に、キングスの方から「アメリカに残ってリハビリをしてほしい」という連絡が来ていました。おそらくキングスがピックした選手が僕を含めて8人ぐらい、夏場もロサンゼルスに残ってハードなトレーニングをずっと続けていました。ですから、「期待されているのかな」という手応えを感じていたのは事実です。

夢にまで見たNHLのリンクは、突如巡ってきた

そして、2006年12月15日、福藤は初めてNHLに昇格を果たす。ただしこの時は、故障者が続出した場合の緊急措置である「48時間限定」の昇格で、AHLへと戻されてしまった。

しかし再び福藤に昇格のチャンスが訪れる。
2度目のNHL昇格が決まり、翌年1月13日、セントルイス・ブルース戦で出場を果たした。

――実際にキングスの試合に向かう際、飛行機のトランジットがうまくいかなかったそうですね。

福藤:試合前日の早朝5時ぐらいに、マンチェスター(AHLのマンチェスター・モナークスの本拠地)にいる僕に連絡が来たんです。次の試合会場があるセントルイスにキングスが移動したタイミングで「明日セントルイスで試合だから、今日中にチームに合流してほしい」ということでした。マンチェスターからは天候か何かの問題で飛行機が飛ばず、ボストンからなら飛んでいるということで、車で移動しました。ボストンからクリーブランドに飛んだのですが、そこでも欠航になっていて「どうしようかな」と。とりあえずクリーブランドにステイするしかないので、空港の人にホテルをとっていただきました。その上でキングスに連絡したところ「それでは、明日の朝早い便で来るしかない」ということになりました。自分が求めてきた夢が目の前にあるのに、なかなか思うようにいかなくて……結構大変でしたが、(飛行機が飛ばないことは)よくあることではあるので、そんなに焦りはなかったです。どちらにしても試合には間に合うと思っていたので、「まあしょうがないか」という感じでした。

ただ翌日セントルイスの空港に着いても、(手荷物受取所で)とにかく防具が出てこない。そこでも結構時間がかかってしまい、ようやく防具が出てきてタクシーに乗り込んで、リンクに向かってもらいました。選手の入り口は会場の裏にあるのですが、それがタクシーの運転手にうまく伝わらなくて、会場の周りをグルグル回っている。観客用の正面入り口から入れようとするんですけど、選手だし、そうじゃないじゃないですか(笑)。「入口は裏にある」と言っても何回も通り過ぎてしまうので、正面入り口で「降ろしてくれ」と言って、防具を背負って歩いていきました。試合開始2時間前を切っていたので、2万人近いお客さんがどんどん入り口に向かっている中で、僕はキングスのバッグを背負い、スティックを持って歩いている。そうしたら(対戦相手の)セントルイス・ブルースのファンが声をかけてくれたので、「プレーヤーのエントランスに行きたい」と頼んで教えてもらい、なんとかたどり着きました。選手の集合時間はとっくに過ぎている状態で、みんな陸でのウォームアップは終わっていて、あとは着替えてリンクに出るだけでした。

――ベンチに入って、第3ピリオドから出場することになりますね。

福藤:いろんなことがあり過ぎて、もう疲れていました。試合に出るとは思っていなかった。「チームに合流して2番手としてベンチに入って、仕事は終わりかな」と考えていたんです。でもちょっと乱打戦みたいになってきて、失点してもキングスも得点していて、みたいな試合の流れだった。そういった状態で代えられることはあまりないので「まさかなあ」と思っていたのですが、第2ピリオドの途中に監督が来て「3ピリはお前でいくぞ」って言われて、そこからソワソワして……。

――テレビで紹介されるようなスーパーセーブを披露し、鮮烈なデビューを果たしますが、どんな感覚だったのでしょうか?

福藤:思うような準備がまったくできておらず、試合会場に着いてパッと着替えてリンクに入ったので……それ以前にも一回NHLに昇格はしていたのですが、その時はベンチにも入れずにすぐ帰されています。ようやくキングスのユニフォームに袖を通してリンクの上に立ったわけなんですが、それまでの過程があまりにもいろいろありすぎて……「ここまで来た」という感慨を持って入っていけなかったので、正直フワフワした感じはありましたね。

――巡ってきたチャンスをとらえて活躍できたわけですが、どうしてそこでいいプレーができたのでしょうか?

福藤:でも結果は出していないんですよ、正直言うと。NHLに行って、フルに出場したわけじゃないですけど4試合に出て、そこで1勝もできなかったし。マイナーリーグではそこそこの結果が出せていても、自分が目標としてきた舞台での準備が自分の中でできていなかった。僕はNHLに行ったかどうかという問題で見ていなくて、「NHLに行って結果を出す」ということしか目標としていなかったので、悔しさの方が大きい。「その舞台に立ったからうれしい」という部分もあるけど、僕からするとそこで結果を出せなかった悔しさの方が、今もずっと残っているんですよね。

新しい環境に身を置くことで、価値観、考え方が変わった

――なぜ監督は、ギリギリに到着して準備が十分にできていない福藤さんを出場させたのでしょうか?

福藤:多分、そんなことはあまり気にしていないんだと思います。アメリカでは、試合直前に合流して試合出場するのは結構よくあることなので。今でこそ「いろんなことがありました」と振り返っていますけど、当時は当たり前のことだったので、僕自身もそこまで気にしていなかった。あとは、僕が出る前に監督が「今日キングスは歴史をつくる」と言っていたので、「何か勝つためのきっかけが欲しかったのかな」というのはありますね。当時のキングスはあまり結果が出ていない時だったので、選手に対してのメッセージもあったのかなと。

――到着まで考える時間がある中で、自分を落ち着かせるような感じなのか、もしくは「いつも起こることじゃないから逆に楽しい」と考えるのか、どちらでしたか?

福藤:僕は割とポジティブな方なので、後者かもしれないですね。そういったこともなかなかあることじゃないので、楽しめるというか。そこでイライラしたりとかっていうのは、自分自身はないかな。逆に「いい経験なのかな」というのは思いますけどね。

――そうした考え方は、子どもの頃からですか、それともアメリカに行ってからですか?

福藤:アメリカに行ってからかな。アメリカ人って結構、みんなあんまり深いことを気にしない感じじゃないですか。そういうのはすごく自分に合っていたのかなと思いますけどね。やっぱり日本人ということもあって、アメリカに旅をしている感じではありました。必ずオフは日本に帰ってきていたので「向こうに行ったからにはいろいろな経験をしたい」というのも頭の中にあって、そういう状況も楽しめるようになってきていたのかなと思います。最初の年(2003-04シーズン)は楽しむ余裕も全然なかったですけど、自分に余裕が出てきて、そういうことも楽しく感じられるようになっていたのかなと。だから、うまくいかなかった1年目がすごくいい経験になったと思います。「ここで自分をどう表現していかなくてはいけないか」ということも、学ぶことができた。陰ながらの努力というよりは、自分を前面に出してアピールしていく部分も、そこで覚えたことなのかなと思います。

――居場所を日本からアメリカに変えた、新しい環境に入ったからこそ変わったということでしょうか?

福藤:日本のアイスホッケーってそんなに広い世界じゃなくて、対戦するのも小さい頃から一緒にやっていた選手なんです。広い世界を見ることがなかなかなかったので、海外に行ってから視野が広がったのは、すごく大きかったなと思います。物事の考え方や見方は、海外生活で一気に変わりましたね。

「なんとなく」で人生を選んだことは、一切ない

福藤はこうして日本人として初めて、そして唯一、NHLに出場したプレーヤーとなった。この快挙は、さまざまな偶然が重なり合ったものだと言うことができる。

このシーズン、福藤は実質3部のECHLで開幕を迎えていた。11月に実質2部のAHLマンチェスター・モナークスへ昇格したものの、サブのゴーリーとして3試合の出場にとどまっていた。NHLのロサンゼルス・キングスでゴーリーに負傷者が相次いだことで、本来ならAHLでメインのゴーリーを務め、NHLで30試合以上の出場経験を持つベテラン選手を昇格させるのが順当だったといえるだろう。しかしその選手をNHLに昇格させ、再びAHLへと降格させた場合には、他チームに獲得交渉の機会が与えられるウェイバー公示の対象となってしまう。チームとしてはそれを避けたかったこと、またキングスの成績が低迷していたこともあって、福藤に白羽の矢が立つことになったのだった。

――こうしてさまざまな偶然が重なり合ったこともあって、NHLに出場したわけですが、自分のことを“運の良い人間”だと思いますか?

福藤:どうだろう……運が良いか・悪いかと言ったら、多分良い方だと思うんですよね。でも今までを振り返っても、いろいろな時に自信を持ってちゃんとした“選択”をしてきた、という確信はあります。「なんとなく」で人生を選んできたことは一切なかったと思う。真剣に考えて、どちらがいいのかを選んできて、結局「あの時、あの選択をしてよかったな」「あの時間があってよかったな」と今思えていますね。ですから運というよりは、「ちゃんとした選択をしてきた」という思いはあります。

――すべては、自分が選んできた結果だということですね?

福藤:そうですね。もちろんNHLに昇格できたのは、けが人が多かったという部分での運もあると思う。ドラフトがなければ、もちろんそこに近づくことはできなかったかもしれない。でも「アメリカに行く」という選択をしなければ実現しなかったことですし、さらにいえばドラフトで選ばれたのはその前にECHLに挑戦していたから。そういう意味では正しい選択はしてこられたのかなと思います。

――いくらけが人が多かったとはいえ、福藤さんがチームから信頼されていなければ、昇格させることもなかったと思います。試合に出られない時期が続いていたとしても、練習や試合に真摯に臨む姿勢が評価され、NHL出場につながったともいえますよね。

結局あるのは、自分がやるか・やらないかの選択だけ

――日本代表でもゴールを守っている福藤さんは第一線で活躍している現役選手ですが、引退してからやりたいと考えていることは今の時点でありますか?

福藤:「指導者になりたい」という気持ちは、この何年かですごく芽生えてきています。「教えることが心の底から楽しい」という境地に達した時には指導者の道に進みたいなと思いますけど、今はまだ選手として、自分がプレーして学ぶ方が楽しい。まだまだ学べることはあるし、選手として学ぶことは必ず指導で生きてくるので、そこはもう少し自分で学んでいきたいなと思う。選手でいる時間の方が自分にとっては魅力的なのでそちらにはまだいけないんですけれども、この何年かで自分の中に道が2つできているのは事実ですね。

――後輩への接し方で気をつけていることがあれば教えてください。

福藤:昔に比べると、先輩が後輩に強くものを言うことはなくなってきています。僕がルーキーの頃はまだ“先輩に言われたことは絶対”という感じもあったのですが、今は結構変わってきていて、言っても響かなかったりすることはあります。もちろん間違っていることについてはしっかり言いますけど、今の若い選手を見ていると伸び伸びやらせてあげた方がいいプレーをしたりするので、変に僕に気を遣わせないように接しています。この年齢(37歳)になってくると、僕の言ったことがキャプテンの意見より強くなってしまったりすることがある。僕はキャプテンではないので、発言にはすごく気をつけています。若い選手が自分の発言をしっかりできるように心がけていますね。

――言い方は相手に合わせる形で、自分の伝えたいことは伝えるということですね。

福藤:言い方はすごく考えますね。ちゃんとわかるように説明するけれども、突き放している部分も正直ある。求めている選手に対して言うのは簡単なんですけど、それさえも求めない選手もいるじゃないですか。そういう選手に対しては声もかけないし、やらない選手に関してはそんなに構ってもいられない。僕ももう37歳で残された現役生活も少ないので、無駄な時間を過ごしたくない。ただ、他の選手のために何かを伝えたい思いはもちろんあります。(H.C.栃木日光)アイスバックスのGKである翔太郎(龍翔太郎)や光(井上光明)には僕が教える時もあるし、意見を求める時もあって、3人はすごくいい関係なのかなと思いますね。

――どういうところを見て、後輩に合わせるべきか、それとも言うべきことを言うかを決めていますか?

福藤:アイスホッケーって結構感情のスポーツで、試合中は強く言うことが多い。もしそれで沈んでいく選手がいても、そこは自分で這い上がってこなくてはいけないところではあるので、しょうがないと思っているんですよ。僕が若い選手に言いたいのは、試合に出られなかった悔しさとかは我慢しないでもうちょっと出していい、ということ。すぐに自分が出られない理由を探すんじゃなくて、そこでもっともがいてほしいということは、今の若い選手に対してすごく思っています。

――印象として、選手に限らず若い世代は効率を求めがちで、無駄に見えることをやったり、遠回りしたりすることを嫌う傾向があるような気もします。とても合理的なのですが、でもそれはいろいろなことにチャレンジする機会を自分から奪っている面もあるのかもしれませんね。

福藤:今のゴーリー技術は効率が良くなってきていて、(パックを止められる)可能性が高いポジションに入るやり方になっています。しっかりとした構えを取って、このポジションに立って、このスタイルで座ればここは空いていない、というようなやり方で、シュートを止める確率を高めるのが今は当たり前。でも僕たちの時代って、小さい頃から「パックに飛びつく」「パックを止めればなんでもいい」みたいな教えだったんですよ。僕も高校生ぐらいまで、ずっとそのスタイルでした。無駄な道をたくさん通ってきたので、そのやり方だといつかは限界が来ることが分かっているからこそ、今の技術がいかに素晴らしいかを理解できている部分もある。それはある意味では遠回りしたからこそ気づけたことでもありますし、今の自分の強みになっていると感じています。そういった経験を若い選手にたくさんしてほしい。「本当にそれ、やってみなくていいの?」とは常に思っていますね。

――福藤さんが何かを選択する時、その基準は何でしょうか?

福藤:自分が楽しめるか・楽しめないかというのは、すごく重要なのかなと思います。また、「これっていい経験になるのかな」という判断も大切。二択の選択ってそんなになくて、結局やるか・やらないかの選択なんですよ。やらない限りは、可能性も何もない。僕は常に、やるか・やらないかの選択をしてきました。

<了>

PROFILE
福藤豊(ふくふじ・ゆたか)
1982年9月17日生まれ、北海道出身。日光アイスバックス所属。ポジションはゴーリー。小学3年生でアイスホッケーを始め、東北高校に進学、3年時に高校生初の日本代表入りを果たす。2001年コクド(後にSEIBUプリンス ラビッツに移管)に加入。2004年6月にNHLのロサンゼルス・キングスから日本人史上2人目となるドラフト指名、2005年8月に2年契約を結び、日本人初のNHL契約選手となる。傘下のマンチェスター・モナークス、レディング・ロイヤルズでプレーを続け、2006年12月にNHL初昇格。2007年1月13日、セントルイス・ブルース戦の第3ピリオドから初出場を果たした。その後、ベーカーズフィールド・コンドルス、SEIBUプリンスラビッツ(後に廃部)、デスティル・トラッパーズ(オランダ)でプレーし、2010-11シーズンに日光アイスバックスに加入。2014-15シーズンはエスビャウ・エナジー(デンマーク)でプレーし、2015-16シーズンに再び日光アイスバックスに復帰した。37歳となった今も日本代表の正ゴーリーとして活躍する、日本アイスホッケー界の生けるレジェンド。

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