【評伝】 内田伯さん死去 “生き証人”の保存 けん引

 原爆投下から75年目の8月9日を待たず、長崎を代表する被爆者がまた一人、旅立った。内田伯さん。晩年、修学旅行生を案内中に転倒し、負傷。つえが手放せない生活になっても、不自由な体を押して被爆講話を続けた。穏やかできちょうめん、そして信念の人だった。
 2009年。長崎原爆の爆心地に暮らしていたかつての住民らを訪ね歩き、連載にした。その一人が内田さんだった。長崎市の原爆被災復元調査事業報告書によると、爆心地から500メートル以内に居住していた住民の9割が原爆で即死。動員などで不在だった住民を含めても、1950年9月末時点で生存は0.26%しか確認されていない。
 温灸(おんきゅう)院だった自宅は、爆心地となった松山町の目抜き通りにあった。学徒動員先で被爆し、奇跡的に一命を取り留めた内田さんが自宅にたどり着いたのは数日後。家族のものとみられる燃え尽きた骨が石灰をまいたように散乱しているだけだった。「二度とこんなことが繰り返されたら駄目だ」。晩年までの平和、継承活動を支えたのは、その一念だった。
 壊滅した爆心地で生活を再建するのは困難を極めたが、内田さんは家族5人の魂が眠る松山の地にあえてとどまった。むしろを敷いただけの粗末なバラック。難を逃れた母親と身を寄せ合い、その日、その日を歯を食いしばるようにして生きた。「家族のこと、あの日のことを忘れたくなかった」。困難を背負いながらも松山に暮らし続けた理由を、かつて私にそう話した。
 「目から消え去る物は、心からも消え去る」-。内田さんが長年、自身に言い聞かせるように口にした言葉だ。戦後、爆心地の町並みを地図上に復元させる市民運動に取り組んだのも、母校の市立城山小の被爆校舎保存運動の先頭に立ち、それを実現させたのも、「被爆者はやがていなくなるが、物は“生き証人”として被爆の実相を伝えてくれる。形として残るからこそ説得力がある」との思いにほかならなかった。復元運動の成果の一部は大きな金属製の地図となり、長崎原爆資料館ホールに展示。被爆校舎は平和祈念館として平和学習の場になっている。
 自宅には復元運動の様子を伝える半世紀も前の町内会報や資料をきちょうめんに保管。「間違ったことを伝えてはいけない」と、依頼された原稿は、いつも丁寧に推敲(すいこう)、校正を重ねた。かつて、内田さんはこう書き残している。「多くの人が核兵器こそが最も反人間的で、非人道的な兵器であり、そして人類絶滅装置であることに十分には気づいていない」。2003年に掲載された手記だが、私たちの意識は当時からどこまで変わっただろうか。内田さんの言葉が今を生きる私たちに重く問い掛けている。

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