名物対談「蒟蒻問答」伝説の第1回を完全再録!|堤堯・久保絋之 元『文藝春秋』編集長・堤堯氏と元産経新聞論説委員・久保絋之氏がリアルタイムの話題を丁々発止に、時にマジ喧嘩にまで発展する本誌名物連載対談「蒟蒻問答」、その第1回を完全再録! 2006年2月に行われたもので、タイトルは「紀子さまご懐妊は天の啓示だよ」。紀子さまご懐妊を中心に、女性・女系天皇の話題にまで斬りこみ、令和の時代にも通じる分析・論考です。

イザヤ・ベンダサンの正体

ここ2、3日ずっと、山本七平さんの『聖書の常識』(山本七平ライブラリー第15巻/文藝春秋)を再読しているだけど、これが汲めども尽きぬ知恵の宝庫だ。読んでいて、ほんと面白い。

久保初版はもう20年以上まえに刊行されたものでしょう。

このなかで山本さんは、聖書について述べたり、あるいは聖書に出てくる、エルサレムやらマサダやら死海やらを訪ねて、その土地の往時に起こったことを現代日本と対比させている。

たとえば、エルサレムはローマに占領されていた。いまの日本はどうか。一応、独立回復ということになっているが、21世紀のローマであるアメリカに、いまだ占領されているに等しいともいえる。昔、エルサレムで起こったくだりを読むと、いまの日本で起きている事がアナロジカルに読める。山本さんは聖書を論じながら、常に現時点での日本を思い浮かべて書いている。もう二十年が経ったんだけど、ぜんぜん古びていない。

久保聖書は古びませんからね(笑)。

いやそうじゃなくって、山本さんの言っていることがだよ。20年前に、「今の日本にたとえればこうだとか」といって、往時のユダヤがローマに叛乱を起して潰された、それを論じながら、時折文章のなかに、生々しいことを混ぜる。

同じように歴史を論じながら、司馬遼太郎さんはほとんど生々しいことを言わなかった。山本さんはそれをやる。20年前に言ったことが、現在から見るとまったく的外れじゃない。

山本七平ってのは、戦後日本で五指に入る思想家と言っていい。『日本人とユダヤ人』が書店に並んだとき、さっそく買った。著者はイザヤ・ベンダサンとある。読んでみると、こりゃ面白い。イザヤ・ベンダサン探しが始まったのは、それからしばらくしてだ。

でも俺は、イザヤ・ベンダサンは発行元の山本書店店主、山本七平さんだと即座に思った。なぜなら、山本さんというのは当時、日本の聖書学または聖書考古学の権威であり論客だった。植物学でいうところの牧野富太郎、漢字でいうところの白川静みたいな人だ。

はたして、山本さんに会って、ふたことみこと話したら、「この人がベンダサンだ」と直感したね。

久保ベンダサンの正体を隠すのにいろいろと手を変え品を変えたようですね。確か、アンドレ・ジッドだったと記憶しますが、全く別のペンネームで、別人に成りすましてジッド名の、つまり自作の小説を批評したりしていましたが……。

そのとき、イザヤ・ベンダサンというペンネームの由来を聞いたけど、煙に巻かれちゃった。イザヤというのは「第一イザヤ」「第二イザヤ」ともにユダヤの核をなす、大変な賢者のこと。ならば「ベンダサン」というのはどういうことか。

それで山本さんに「物言わぬは腹ふくるる業」だから、「『いざや、便出さん』てなことですかね」と言ったら、七平さんは呵呵大笑したよ(笑)。

久保それにしても、山本七平=イザヤ・ベンダサンという知識人の形というのは、相当特殊です。

彼は、フィリピン戦線で捕虜になった。その捕虜体験というのが、彼の思想の核になっている。山本さんは青山学院を出て、無宗派のキリスト教徒になる。無宗派というのは、坊主を介さずに神と直接に対話する。山本さんは内村鑑三の系譜に連なる無宗派のクリスチャンだった。そこから、モノがよく見えるんだな。

山本七平の仮借ない追及

久保実は、僕はその山本七平ライブラリー(第5巻『指導者の条件』)の解説を書いているんです。イザヤ・ベンダサンの文章には、仮借なく日本軍を追い詰めていくくだりがある。

これは『下級将校の見た帝国陸軍』とか、全著作を貫くモチーフなんですね。また皇室・天皇制にたいしても実に「冷めた眼差し」を向けている。なぜイザヤ・ベンダサンがそこまで欧米的思考を持っていたのか。これは単なる「三代目キリシタン・山本七平」ではない、何かがある。

軍隊経験を持つという点では、司馬遼太郎と共通しているが、厳しさが違うんですね。山本さんの追及の仕方というのは、ナチを追及したモサドの意識に近い。たとえば『現人神の創作者たち』のあとがきでは「戦後二十余年、私は沈黙していた。その間、何をしていたかと問われれば『現人神の創作者』を捜索していた」と書いているくらいですから。いったいこの人は何者かということを、その解説の中で書きました。

じつはこの解説を書いた後、半年くらい経った頃だったか、七平さんの縁戚で幸徳秋水の大逆事件に連座した者がある、という話を雑誌で読んで、何となく合点がいったような気がしたのですが……。

七平さんは無宗派のクリスチャン、つまりは一神教教徒だよ。日本では、一時期天皇というのは一神教だった。日本の歴史ではヘテロ(異質)な存在だった。西洋の東漸に対抗するために、つくらざるを得なかった。

山本さん自身、一神教徒だから、日本の「天皇一神教」にたいして、非常に鋭い犀利で透徹した見方ができた。Aの一神教徒がBの一神教徒のことをよく見えたということだ。

久保河合隼雄は、記紀神話から抽出した「中空均衡型構造論」のなかで、「中空均衡型」と「中心統合型」をモデルとしてあげている。河合のスタンスは、あくまで日本型の「中空均衡型」、すなわち天皇的な構造の中に置いているので、どこかでそこからは離れないんですが、山本さんは違います。

日本教のきわどい淵まで行きながら、河合のように決して肯定的な、積極的側面を読み込んだりはしない。常に一歩手前で踏みとどまる。

「中心統合型」の方から徹底的に変えなきゃいかんと、しかし日本の組織は変わらないだろうと。戦後日本の組織、たとえば自民党、総評、農協などは、戦前の日本陸軍と同じ構造を持っているじゃないかという。まさに、そのスタンスの違いが重要なんです。まかり間違えば、山本は天皇廃絶論にまで行ってしまう可能性がある。

たとえば、山口昌男が天皇論を展開するときに、天皇は外在的にあるのではなく、内在的に自分の内にあるんじゃないか。自分の内なる天皇というものを、徹底的に掘り下げていくと、竹内好の言うところの「一木一草に天皇制がある。われわれの皮膚感覚に天皇制がある」(『権力と芸術』)になる。

天皇を取り払ってしまうことで、究極的には日本文化までもが取り払われていってしまうんじゃないか。天皇は簡単には無くならないぞというのが山口の論理ですよね。

こうしてみると、山本さんは左の論理というか、西洋的論理の側にいると思います。たとえば、「人の和」を重視する世話人型指導者像にたいして、非合理性からの脱却・新しい合理性の追求を危機の時代に求められる新しい指導者像として、断固として対峙されたように……。

それにしても、いま自分が新聞記者だったら、女系天皇とか女性天皇はダメで男系男子を貫くべきだ、なんて簡単には書けない気がする。

なぜ書けないの?

久保それは天皇には元来両義的な側面というか、中国の皇帝のようなエンペラーとしての側面とともに、シャーマニズム的な要素があるからです。男系男子だけでは、天皇のなかの卑弥呼的なものは説明できないでしょう。

儒教が輸入され、それとともに律令制という中国式権力構造が入ってきた。それは男系的社会なんでしょうが、それより遥か遡れば卑弥呼の時代があって、それはまさに女性であり女系天皇的だったわけですよね。

これは山口理論の受け売りなんですが、いつだったか、僕がいい加減に山口理論を引用するので「勉強しろ」ということだったのか、『天皇制の文化人類学』が文庫本になったとき、先生名で岩波書店から一冊戴きましてね。

それによると、王権というのは、そもそも男性的な部分と女性的な部分とを持っていて、その両義性というか、二元性・二重性から成り立っているんです。天皇の構造も本来それに倣っていて、いわゆる女性的な制度、「後宮」的な制度、いわゆる「奥」を背後に取り入れていく。

同じような構造は、中国王朝のような男系的社会でも制度としてあるんだけれど、女性というものを簡単に排除して男性的なものだけを残してしまうと、天皇の持っている豊饒な可能性の一面を消してしまうんじゃないかと、いつも思っていて、それで筆が進まない。

日本浪漫派の保田與重郎が「万世一系」について、「水に身をゆだねたコメ作りこそ循環の理の根源にかなうものだから、必ず変動なく子々孫々に一貫するだろう、と考えたときの理念が萬世一系の思想である」と、日本の永遠について説明しています。とするならば、天皇というのは日本のコメ作りの思想と密接に絡んで一心同体といってもいい。

そこでの女性の位置というのは、ただ男女同権というようなチャチな薄っぺらなもんじゃない。網野善彦は農業というのは田畑を耕す男性の世界と養蚕や綿作、それを使った織物は女性の世界だったといっています。とても構造的に深い女性的なものと一体であるわけです。

天皇のなかの女性的なものというのを簡単に切られてしまうと、律令制度ができて、男系社会ができてこれが前面にクローズアップされたために、卑弥呼的なシャーマン的なものというのは消えていってしまう。権力的なものは男の得手でしょうが、霊的なものは女の方ですからね。

王権の母体は何が支えているかというと、男性的なものだけではない、女性的なものの働きがあるんです。江戸幕府は「大奥」という女性の組織が支えた、それと同じ構造は天皇制のなかにあったわけです。

立花隆のY染色体論

世の中ってのはね、男と女と両方いる。片方だけでは駄目なんだ。両方あいまって成り立っている。

天皇は万世一系、男系天皇を縦軸にしているけど、それはフィクション(擬制)なんだ。だって神武天皇のDNAが今に至っているかなんて、そんなこと誰も証明できない。証明するんだったら、各地の天皇陵を掘り返して、DNAを調べるしかない。

ただ、天皇は万世一系として、Y染色体が連綿とつながっていると国の内外が思っている。世界最古の家系であると思っている。だからこそ、外国のセレブは皇居を訪れて、畏敬の念を現すわけです。

立花隆が自身のブログ(「メディアソシオ・ポリティクス」*編集注:現在閉鎖)で詳しく書いているが、要するに、神武天皇から今上天皇までそれぞれ二人の子供を作ったと仮定すれば、2、4、7、16、32……と世代の数だけ倍々ゲームで子孫は増える。仮に100代続いたとしても、とんでもない数字になる。

いろんな条件をつけての割り算、引き算をしていったとしても、神武天皇のY染色体を受け継ぐ人々が、今の日本にゴロゴロいるはずだと彼は言うんだね。そんなことを言ったら、誰だって天皇の血を引いているといえてしまう。俺だって清和源氏で清和天皇の血を引いていると、オヤジから教わった。

遺伝子学的か生物学的には、遍くDNAは拡散しているとしても、日本の男系天皇はY軸としてずっとつながってきていて、女性天皇が8人もでたけれど、なんとか遣り繰りしてY軸を保とうとして工夫してきたのが、日本の皇室だと。そう、日本の内外は認識している。

その認識こそが大事なんだ。幻想といえば幻想だよ、フィクションだよ。でも国を束ねるにあたって、フィクションてのは大事だ。それを否定したら、とたんにマルキシズムになる。

久保立花はネズミ算と取り違えているんじゃないの。立花理論からいえば、遺伝子学的にはアフリカのアダムとイブにまでつながっちゃう。ヒトゲノムを辿っていけば、畢竟アフリカのご先祖様につながるわけです。そこから人類が発祥しているんですから。それを言っちゃあ、お仕舞いよ。

今度の秋篠宮の紀子さんの懐妊は、早い話、天の啓示と受け取るべきだよ。「いいか、お前ら、皇位継承の変更の論議なんて止めろ」というね。

だって時あたかも、皇室典範改正案が国会で審議されている最中にですよ、「ご懐妊しました」と出るということはだね、これは神事以外のなにものでもない。それを小泉首相は虚心坦懐に受け止めなきゃいけない。なのに、衆議院で質問されたら「いや私は粛々として提出します」と言った。こいつは、天の啓示にすら思い至らない。5年の政権で思い上がっているんですよ。

平成南北朝の幕開きか

2006年9月6日、悠仁親王をご出産され、退院された紀子さまと秋篠宮さま。

久保それにしても、秋篠宮夫妻は、新年の歌会始の儀で、お二人揃ってコウノトリの歌を詠まれたでしょう。

「人々が笑みを湛へて見送りしこふのとり今空に羽ばたく 」(秋篠宮殿下)
「飛びたちて大空にまふこふのとり仰ぎてをれば笑み栄えくる」(紀子様)

今年のお題は「笑み」だそうで、それが実現したわけですよ。時あたかも、国会では女性・女系天皇実現を策する皇室典範改正論議で、賛否二分する状況でしょう。満を持したというか、天の啓示というにはギラギラしすぎていて、どこか端倪すべからざるものを感じませんか。

僕は、いまの皇室の事情を鑑みると、個人的には簡単には寿げないんですがね。ヘタをすると、平成南北朝の幕が切って落とされるような危うさ、というか……。

壬申の乱とでも?

久保いみじくも西部邁が言っていますが、天皇というのは国民精神における「聖と俗」の境界線上に位置する。世俗的な規範を示した憲法でいえば、祭祀王及び非常事態における文化的体験の発動という形で「上に突き抜け、下に突き抜け」た存在だと。天皇制の構造というのは、両義的な側面、つまり男性的なものと女性的なものが内在しているという憲法の解釈を明快に言ったのは彼だけですよ。

そんなの当たり前じゃない。

久保男性的なものを強調してそれしか認めないと、日本の近代思想・法体系の中に、都合よくぴったり当てはまっちゃうんです。明治以降の日本の近代化の過程で、そういう位置に天皇を据えたことと、いま男系論者が言っていることとは、何も変わらないじゃないか。

日本社会における「女性的なもの」というものに見向きもしていないわけですよ。天皇権力における、女性的なものというのにね、無頓着なんだ。それでは、日本文化の真髄は理解できないんじゃないかと。欧米的な「原理としての父性」は日本文化の中に存在し得ないんですから。

そういう豊饒な可能性まで考えてみたときに、男系天皇であれば万世一系で日本的なものが保たれるというのは、ちょっと安易すぎやしないかと思うんですよね。

西部論文は、男系だろうがなんだろうが、天皇ないし天皇家というものを保つ、評価する、その存在理由をよくよく考えることが大事だと書いている。いまさら何を言っているんだ、当たり前の話じゃないか。

久保その論は、彼の憲法論のなかの一つですよ。ちなみに、天皇制という概念はもともと左翼が言い出したものでしょう。

西部論文は当たり前のことを当たり前の言葉で、さも新しいことのようにいっている。もう少し気の効いたことを言え。オレが編集者ならあんな論文載せないよ。

久保彼は自分の憲法論のなかで、天皇というのは多数決原理でどうこうできるような、つまり国民主権がどうこうできるような位置づけではないと言ってるんです。もし多数決の原理が通用するなら、天皇制は廃絶するのかといえばできてしまう。そんなものじゃないだろうと。

だから、皇室典範でも、本来は議会がああだこうだ言える話じゃない。戦前の皇室典範については、天皇が直接言及するわけでしょう。憲法とほとんど同列にある法律なんですよ。だから今日だって、皇室典範を議会が簡単に決めていい話じゃないと彼は言ったわけです。それは読売新聞改正案や自民党案よりは、ずいぶん優れたものだと思いますよ。

石原慎太郎が産経新聞の連載のなかで、いまの天皇制と類似するものを探せば、「古代エジプトのファラオに例を見ようが」と言っていて、ちょっと違うかなとも思うけど、天皇というのは、もともと多数決の論理には馴染まない。多数決で論じること自体がおかしい。

天皇あるいは天皇制の何たるかというのは、普段は五穀豊穣、国家安泰を祈る神官の代表だけれども、日本が危機に瀕したときに初めてその存在意義が解る。そういう存在だと思う。これは外国から見ればまったく稀有な存在で、日本民族がずっと、意識的にしろ無意識的にしろ抱えてきた、そういうものですよ。議会の青票白票云々という話じゃない。だからこそ担保しておいたほうがいいんじゃないか。

久保英訳すると「エンペラー」って表現するのはおかしい。中国ですと、帝の上に天帝というものがあって、民草は天との契約だと、山本さんはいうんですよ。「天の思想」といってもいい。

その伝でいえば、天皇の上に天帝があってね、天帝に天皇が反するときには、天皇を変えてもいいってのが、シナの発想なんです。易姓革命というのはこのことで、まさに「姓」を変えちゃうことでしょう。

戦前、哲学者の西田幾多郎が『日本文化の問題』(岩波新書)で書いているんですが、社会形態が行き詰った場合には、シナでは易姓革命が起こった。一種の下剋上ですね。小泉はいままさに下剋上をやっているわけです。

日本では、社会形態が行き詰るときには、革命とならずに皇室に返る。復古するんだというんですね。ついでだけど、西田は天皇という言葉を使わず、専ら皇室という言葉を多用してます。

しかし復古するとは同時に新たなる世界に踏み出すということでもある。そして新たな社会というか制度は皇室から始まるといって、その最たるものが明治維新だといっている。

見事な「変革の論理」だね。

小泉はなぜ急ぐのか

久保そうです。彼は皇室については、「全体的一」(=支配者)と「個別的多」(国民)との矛盾対立を止揚する、「無の場所」と意味付けている。それを「矛盾的自己同一」と呼んだんです。大衆と権力とか、国民のあいだの対立とかを解決する場所として、無の場所があると。それが天皇制だと。

これは上山春平なんかが指摘しているんですが、中国から天帝という思想が入ってきたときに、「古事記」と「日本書紀」のなかで論理をすり替えていったんです。どういうふうにというと、万世一系というのは天皇が天帝でもあるわけです。そうすると、天帝に天皇は反することはない。だって、二つとも一緒なんだから。

それにたいして、中国とか韓国では、天皇を「日帝」とか「日王」と呼んで、絶対に天皇とは言わないでしょう。そういうと、天の普遍を僭称しているとされるからです。

中国は欧米的な王権の構造に似たものを持っているので、皇帝を超えるものとしての天帝を諒解している。だから皇帝に何かあればそれを取り替えちゃうことができると発想する。

日本は変えられるかというと、そうはならない。そこが日本の巧みな曖昧さといえばそうなんですが。河合隼雄の「中空均衡型構造論」でいう、「三貴子(トライアッド)」(=アマテラス・ツクヨミ・スサノヲの三神)の基本構造がじつは日本の構造であって、スサノヲの位置は西田の「無の場所」と同じです。

竹内好のいう「一木一草の天皇制」とは、トライアッドを例にとれば竹下登とか小渕恵三、あるいは村山富市のように、口の悪い小沢一郎が「ミコシは軽くてパアがいい」と言い放った歴代政権の権力構造まで「無為の中心」が刺し貫かれているということなのです。

今度のご懐妊で、小泉は皇室典範改正を引っ込めた。Uターンした小泉には、その夜のうちに何かがあったと見るべきでだろうね。誰かが智恵をつけた。姉の信子の入れ知恵かな。彼って、姉の言うことしか聞かないから。

なぜ、小泉は改正案の提出を急ぐのか。幹事長の武部勤が、天皇の御意向だと放言した。有識者会議の答申──長子優先・女系天皇容認が今上天皇の御意向だとすれば、これは俺は「ヴァイニング」効果だと思う。クエーカー教徒のエリザベス・ヴァイニング女史が今上天皇の家庭教師をした、その結果じゃないか。

つまりは一神教か多神教かという話だ。日本は多神教なのに、GHQは一神教を植えつけようとした。マッカーサーはバイブルを一千万冊刷って日本全土に配ろうとした。日本には日本の長い歴史がある。もしかりに、今上天皇が「答申」をよしとする御意向を持たれているとしたら、それはヴァイニング効果というしかないな。

久保喩えは悪いが、ネス湖の怪獣伝説ってあるでしょう。仮に実在しているとしても、生物学的に繁殖可能な、つまり再生産を繰り返せる一定の個体数がなければ、天皇は絶えてしまう。

マッカーサーは天皇・国体を守ってくれたといまでも日本人の間で評価は高いのですが、じつはマッカーサーの狡知(策略的知性)というのは、そんな生易しいものではない。その最たるものが皇族制度を廃止したことです。つまり天皇は残したが、その再生産装置の重要な部分は断った、ということなのです。

皇室典範改正は、憲法改正も含めて、上っ面じゃない国家とか根っこの部分を交えて議論がすすんでくれば、初めて意味を持ってくるんですよ。単に天皇を象徴においておけばいいなんて無責任な話じゃない。そうでない、日本文化の根っこの部分から議論してこそ、初めて出発点に立つんじゃないかと思ってます。

三島(由紀夫)さんは言っていたよ、憲法改正ってのは単なる第九条の問題じゃないんだと。第一条、第二条の論理矛盾を突いて、天皇をどうするかという話だとも論じた。憲法九条についても、下手な改正はいよいよ「アメリカの好餌となり、自立はさらに失われる」、それを避けろというのが彼の遺言なんだよ。

久保そうですよ、これは単に皇室典範改正問題だけじゃないってんですよ。遡って言えば、明治憲法や教育勅語、皇室典範は、井上毅が草案起草していますよね。

そのときにも、女性天皇を認めるという話になったんですが、彼はみんなが女性天皇に賛成と言ったとき、それでいいのかと、夫の子供が引き継いだら皇統が絶えるということを声高に言うわけでしょう。それで一気に会議が引っくり返って、憲法草案の骨格や旧皇室典範が決まっていくんです。井上のように言ってのけてやってのける人間がいまいるのかしら。

「頑固」と「頑質」は違う

「勉強ができなくてアタマも悪い」

小泉はTVで「いま反対している人たちは、愛子様が子供を生んだとき、その方が天皇になれないということを意味しているということをよく解っているんですかねえ」、こう言っている。粗雑だなと思うねぇ。

彼の頭の中では、どうも女性天皇と女系天皇とがごっちゃになっている。解っていない。そもそもハナからお前さんの言っている女系天皇に反対しているんだということが解らない。

久保世の中に勉強はできないけど、頭のいい奴ってのはいるんですが、小泉は「勉強ができなくてアタマも悪い」って『パンツをはいたサル』のセンセイ(栗本慎一郎氏)は言ってました。彼は慶應大学で小泉のご学友だったそうです。

天啓をまともに受け止められないやつは、国を束ねる資格もセンスもない。やはり引かなきゃ。

久保彼は頑固が美徳だと思っているんですよ。滑稽です。

司馬遼太郎が、吉田松陰を評した話の中で、「頑固」と「頑質」というのは違うんだと言ってます。「頑質」というのは、ただやたらに何でもかんでも拘りつづけることを言う。吉田松陰は頑固だったけれど、頑質ではなかったと。

小泉は頑質ですね。まったく状況も見えずに、物事に執着しちゃうんだな。吉田茂は頑固だった、おれもそれに列したいなんて言ってる。お笑いなんだけどさ、道化がそのまま権力の表舞台に居座ったのではねえ。

日本の権力構造が天皇制でも行政でも、崩れはじめている。そもそも天皇が祀る五穀豊穣の神である「産霊神」は、生産力の神なんですが、このところ皇室に男子が恵まれないのは、どこかで日本の少子化とパラレルに連動していると思います。

伊邪那岐命が、黄泉の国(死後の世界)に行ってしまった伊邪那美命に会いに行ったものの、夫婦喧嘩をする羽目になってしまった。その別れ際に、伊邪那美命が「私は、あんたの作った人を一日に千人殺すからね」と言ったのにたいして、伊邪那岐命が、「かまわん、俺は一日に千五百人作るから」と言い返したといいます。

これにより一日五百人ずつ人口が増えるようになった。人口増加を寿ぐことの起源がここにあるというのですが、子どもが生まれることは古来より国家のエネルギーだったんですよ。

「国家は元気」であるべきであり、 「元気は正義」だ

山口昌子さん(産経新聞パリ支局長)が書いていたけれど(「欧州の『人口は国力』意識」産経新聞2006年2月4日付)、「人口は国力」だと。子供が生まれないというのは、国家のインポテンツ状態だ。「国家は元気」であるべきなのに。

「元気は正義」と誰かが言った。いいかい、国を束ねる者は、男と女が安心して枕を並べられる環境をつくることなんだよ。これが政治の要諦だ。それ以外にない。五穀豊穣ってのは、元来そういう意味なんだから。

久保皇室のエネルギーが冷える、つまり子どもが生まれないのは、国家の廃れる前兆ですよ。紀子様のご懐妊で、皇室のエネルギーが復活しますかね。

家元だって、企業だって、存続していくのは大変ですよ。自らのY軸を確保していくのは。

久保秋篠宮様は、礼宮時代、たしか18歳くらいの記者会見で、「私は三笠宮智寛仁殿下や高松宮のような役回りをしたい」と言っておられる。高松宮もヒゲの殿下といわれた寛仁殿下も明らかにトリックスターでね、皇室の摩訶不思議な力学関係のなかで、トリッキーな役回りで昭和天皇をバックアップしていった。

弱冠十八歳の若者が、そうした「王権と道化」との相互補完関係を理解していて、堂々と記者会見で自分もそういう「放浪のプリンス」の役回りを引き受けたいと述べた。なかなかです。皇室という制度がそう言わせているのです。

天皇制をなくすのには、話題にしなきゃいい、なんて吉本隆明は言いましたね。ということは、いま話題になっているということは、天皇家の活性化につながる。

秋篠宮家は一気に存在感を増したからね。

久保その意味では圧倒的でしょう。しかし一言言わせてもらうならば、雅子皇太子妃への惻隠の情に欠けるというか、北一輝が言った皇室の「優温閑雅」の気風からはみだしたように見受けられるのは残念ですがね。

所詮、国家は一つの生命体ですよ。生物学的に考えると、スペンサーの社会契約説とダーウィンの『種の起源』――生存競争なんだ。スペンサーのあとにマルキシズムが輸入された。しかしマルクスはごらんのザマで、ここでもう一回契約説に帰ってきたんじゃないかな。

昭和天皇は生物学者で、天皇機関説問題が起こったとき、「器官でよいではないか」といった。国家の頭になぞらえたわけだ。人間の身体だって、頭だけじゃなく下半身を論じなければ片手落ちだ。それではいかんというのが戦後日本だった。

皆が望んでいるのは男子だが……

久保スペンサーの社会進化論はどこかで白人優越論につながっていくものですが、明治期の日本ではずいぶん持て囃されましたよね。いま猪口大臣が必死こいて少子化云々と言ってますが、そんな問題じゃあなくて、少子化というのは、まさに天皇の後継をどうするかという問題に直結しているんですよ。

「元気は正義」。それが生物学。

久保そんな元気がこの国にありますかね。中国だって韓国だって、勃興期の国家はナショナリズムのプラス面が働くのです。日本だって明治期は論客はみんな「国の元気」といったものですが……。

でもみんなが「ご懐妊よかったですね、おめでとうございます」と祝っている。この反応はとても健全なんだよ。その反応のうちに、いろんな思いを込めている人も少なからずいる。みんな今秋が楽しみじゃないか。

それでもって、したり顔の論者は言う、生まれるのは男か女か。それにこだわる必要はないと。何をバカなことを。みんなが望んでいるのは、男子ですよ。日本男子。

それにしても、一部メディアで雅子さんの離婚なんかも取上げられるようになってきた。タブーじゃなくなってきた。まるでイギリス王室みたいになってきた。日本ならではの万世一系が、ヨーロッパの王室と同じようなレベルで論じられるようになってきちゃった。憂慮に耐えない。

久保皇室伝統の解体がいろんなところではじまっている。それは、単に女系天皇論だけでなくです。

さきほどの稲作が万世一系の思想に合致しているという話でも、すでにコメは輸入自由化になっている。農家は後継問題がある。昭和天皇が崩御される前に「コメは大丈夫か」とおっしゃられたというのは、保田輿重郎のいう神武天皇肇国の精神の根底からの御声がわれわれには聴こえなくなってきていることを危惧されていたというふうにもとれる。

小泉内閣が進める規制緩和、市場主義、自由万能主義の経済。まさに小泉内閣は、市場主義の中に皇室を投げ込むようなことをしている。皇室はグローバル・スタンダードのなかに融解していく。一「地球市民」になっていく。

地球市民なんて、とどのつまりは無国籍ってことだ。外国の空港で、エンバケーションカード(入国管理に提出する)に、「地球市民」と記入したら、一昨日来いと放り出される。世界の誰も相手にしてくれない。ひたすらそこに突き進んでいるのが小泉改革だよ。日本のフィリピン化といってもいい。

司馬遼太郎さんがこう言った。「フィリピンはどないもならん国やなあ」。スペインとアメリカに二回も占領されて、骨抜きどころか何もない、完全に融解している。日本もいずれそういう国になりかねないとね。

久保これから何十年後かに、世界を彷徨う日本民族ってのが出現するわけだ。ホリエモン的無国籍人、マネーゲームに長けた国境なき市民だけが幅を利かす。それが天皇制解体とパラレルに進行している。

モーゼはイスラエルの民を率いて砂漠を四十年間も彷徨うのですが、彼らには絶対神がおり、いつの日か乳と蜜の流れる地にたどり着けると信じ続けることが可能だった。しかし三島由紀夫のいうように、日本の文化を文化たらしめている究極の根拠である、文化概念としての天皇を失った一億の彷徨える日本人には、いったい何があるんですかねえ。

いいだ・ももさんは『核を創る思想』という本を書いた。核と書いて、「サネ」と読む。その「核」とは何か。いいださんとは立場が逆かもしれないが、それは天皇だ。それを小泉が溶かそうとしている。日本にとって何の益があるのかと問いたい。あの核がいかに有効だったかということを、歴史を遡ってよくよく勉強してみろといいたい。

著者略歴

堤堯

著者略歴

久保絋之

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