日本国と日本人へのヘイト
大炎上したあいちトリエンナーレ、ひろしまトリエンナーレのプレ事業、そして遠くオーストリアで行われている日墺友好150周年記念事業の「Japan Unlimited」。
私を含めた多くの人は、それらで展示された複数の作品が「表現の自由」を人質に取った日本国と日本人へのヘイト表現であると感じた。
昭和天皇の写真をバーナーで焼き、灰を足で踏みにじる映像なぞ、憎悪に根差した暴力に過ぎず、一片の芸術性も見出せない。一方、実行委員会や作家たち、そして彼らを支持する人たちは、「表現の自由が脅かされている」と主張し続けた。
彼らは、たとえ人を不愉快にしたり、傷つけたりする作品であっても、表現の自由の名において保護され、尊重されなければならない、と強弁した。
また、メディアは慰安婦像ばかり映し、本当に人々を激昂させた天皇陛下への冒瀆には触れようとしなかったばかりか、ごく一部の脅迫的な抗議ばかりをことさらに強調し、あたかも言論の自由が暴力的圧迫に晒されているかのような印象操作を繰り返した。
「表現の自由」を巡る問題ではない
しかし、これらの問題は断じて表現の自由を巡る問題ではない。何がアートとして認められ、認められないかという議論でもない。政府が公認したり、公的支援を決めたりする際に、認定基準にしたがってきちんと審査をしたか、という問題に過ぎない。
つまり、デューデリジェンス(以下、デューデリ「リスク回避のためにガイドラインなどが守られているかを検証すること」)の問題なのだ。そこをはき違えて、表現の自由云々の議論に拘泥してはならない。
たとえば、会田誠という作家は東京藝術大学を出ており、高い技能を有しているはずだが、私は会田氏の作品を芸術だと思わないばかりか、見ると本当に気分が悪くなってしまう。政治的に偏向しているというよりも、暗い性的倒錯を感じ、思わず目を逸らしてしまう。
2008年、飛行機雲で広島上空に「ピカッ」の文字を描いて話題になったアーティスト集団「チンポム」(Chim↑Pom)も、私の感性では受け入れられない。
彼らが「表現の不自由展」や「Japan Unlimited」に出品した「気合い100連発」(震災後の瓦礫のなかで、被災した若者たちと円陣を組んで、アドリブで声出しをするビデオ作品。終盤、「被曝最高」 「放射能が出てるよ」 「もうちょっと浴びたいよ」と声出しし、批判を浴びた)という作品は、福島をはじめとする被災地を冒瀆しているという誹りを免れないだろう。
芸術か否かは不毛な議論
そもそも、不適切と見なされなければ表現の不自由展に含まれるはずもない。
それ以外の彼らの作品を検索してみたが、女性メンバーがピンク色のゲロを吐き続ける映像や、水野という男性メンバーが、防犯カメラのついた部屋で21日間にわたって野生のカラスとネズミと生活し、10日後に死んだカラスを食べ、剝製にすることで弔ったという記録など、ここに書いているだけでも吐き気を覚える。
これらの作品を芸術と見做すことは私にはできない。しかし、「何をいうか、立派な芸術の一分野だ、賞も取っているではないか! お前にその価値がわからないだけだ!」と反駁する人々が必ずいるだろう。
芸術か否か、その議論に踏み込むのは不毛だ。
ルールを守るのが基本!
この問題は前述のとおり、あくまでもデューデリの問題なのだ。政府が公認したり、資金援助したりする場合は、対象がアートであれなんであれ、かならず選考基準がなくてはならない。そして毎回、対象が選考基準に合致しているか、きちんとチェックしなくてはならない。
一般国民から批判が噴出して政府が公認を取り消した「Japan Unlimited」に関しては、在オーストリア日本大使館のホームページにこうある。
4 承認要件
周年事業の対象となる事業は以下のとおりです。
⑴オーストリア国内で開催されるもの。日本で開催される事業の申請先は在日オーストリア大使館。
⑵開催時期が2019年であるもの。2018年下旬及び2020年上旬に開催されるものについては、例外として対象となることがある。
⑶文化、人物交流、スポーツ、教育、観光、政治、経済、科学等の分野において、日本を紹介するもの、又は、日墺両国の相互理解を深め、友好を促進するもの。
⑷主催者が事業の一切の責任を負うもの。
⑸以下に該当しないもの。 公序良俗に反する、又は、オーストリアの法律に違反する事業。日本とオーストリアの友好関係を損なう事業。営利を目的とした事業又は公益性が乏しい事業。 特定の主義・主張又は宗教の普及を目的とする事業。
表現の自由を巡る不寛容?
「公序良俗に反しない」 「特定の主義・主張を目的としてはならない」など、公的事業であれば極めて当たり前の承認要件である。「Japan Unlimited」の出展作品は、完全にこれに抵触するはずだ。
しかし、外務省は個別の作品に言及することなく、全体として「日墺友好に関連性がない」という理由で公認を取り消した。
これについて、東京新聞はさっそく11月6日の夕刊で「表現の自由を巡る不寛容が国外に波及した格好」と報じた。
寛容も不寛容もない。表現の自由とも関係ない。会田氏やチンポムの出展を妨げているのではない。事業の趣旨には合致しないから公認しない、と言っているだけだ。
会田氏は自身のツイッターで、文句があるならこの展示の企画をしたイタリア人のキュレーターに言えとつぶやいていたが、それも筋違いである。
そのイタリア人がどのような思想の持ち主で、どのような企画をし、それがこちらの目にはどんなに不愉快に映っても、それこそ思想信条の自由だ。問題はそこではない。
曲解された「表現の自由」
ここで問題なのは、表現の自由に対する不寛容などではなく、日本大使館が事前のデューデリを怠ったことなのだ。当然ながら、事前に主催者から趣旨説明を含めた申請がなされ、作家のリストも渡されたはずだ。
この時点で、「関連性が低いので承認しない」という結論を出しておくべきだったのだ。
ましてや、日本政府や自治体などの公的機関ならばなおさらだ。ロゴを貸すだけだから適当でいいということには、断じてならない。
自分たちが設定した承認要件を疎かにしてはならず、芸術作品と称するものにとやかく言って検閲よばわりされたくない、などと考えてはならない。そのために、承認要件は誰が見ても公正なものでなくてはならない。
そして、一旦要件を決めたら、厳格に履行されなくてはならない。原理原則を大事にして、プロセスで手を抜かないこと。これがこの問題の肝であり、私がデューデリの問題だと断言する所以である。
会田氏にもチンポムにも表現の自由はある。しかし、それを公認するか財政的支援をするかは全くの別問題だ。それを混同してはならない。
それにしても、極めて挑発的で攻撃的な作品を並べて多くの人を不愉快にしながら、批判に晒されると「表現の自由の抑圧」だなどと騒ぐのは、卑怯な手法だ。
日本エア野党の会 代表 山岡鉄秀
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