関根潤三氏は「野村さんとはタイプの違う理論家」 名コンビの深澤アナが秘話明かす

実況と解説として長年コンビを組んだ深澤弘アナウンサーが関根潤三氏との思い出を明かす

解説者として初めて『試合の流れ』『勝敗を分ける1球』の概念を導入

 大洋、ヤクルトで監督を務めた関根潤三さんが9日、老衰で亡くなった。93歳だった。ニッポン放送の専属解説者を長年務めた関根さんとコンビを組み、名アナウンサーとして鳴らした深澤弘さん(現フリー)が驚くべき“伝説”を明かす。

「関根さんは現役引退翌年の1966年、ニッポン放送の解説者になりましたが、当時私は30歳。野球とは何かをみっちり教えていただきました。一般には好々爺というイメージですが、素顔は野球に関しては非常に厳しい人でした。放送中も、下手な質問をすると返事もしてくれませんでした。私が実況アナウンサーとしてやっていけるようになったのは、関根さんのおかげです」と深澤さん。

「ID野球の野村克也さんとはタイプが違うけれど、関根さんも理論家でした。とにかく基本を大事にしていました。それに、今でこそ、流れがいいとか悪いとか、という言い方をよく使いますが、『試合の流れ』という言葉を最初にメディアで使ったのは、関根さんだったと思います。『次の1球が、勝敗の分かれ目になります』という言い方を始めたのも、関根さんでした」と振り返る。

 一方で、のんきな一面もあったという。「『生まれてから、時計を持ったことがない』と言ってました。『時計なら街中にいくらでもある』というのがその理由でしたが、待ち合わせをしても、日にち、時間をしょっちゅう間違えた。さらに“起きたら寝ない、寝たら起きない”で、就寝はいつも午前2時頃。当然朝は弱かった。

 困らされたこともありましたが、その代わり、野球の話は圧倒的におもしろかった。当時、私は川崎市の関根さんの自宅から徒歩10分の所に住んでいて、関根さん運転の車に同乗させてもらって球場に向かいました。1日中野球漬けでした」

「すらっとした体形で美男子、当然女性にもモテました」

 関根さんは法大在学当時からスター。1949年10月、米大リーグ傘下3Aのサンフランシスコ・シールズが来日し、巨人、全日本など日本のプロを相手に6戦全勝と力の差を見せつけたが、関根さんはエキシビションゲームで東京六大学選抜の先発投手を務め、延長13回完投と健闘した(2-4で惜敗)。

 深澤さんによると「法大の名監督として知られる藤田省三さんは『俺の数多い教え子の中で、技術なら関根、机の上なら根本陸夫(元広島、西武、ダイエー監督)が1番だった』と評していました」という。

 プロ入り後は近鉄で投手として65勝(94敗)を挙げたが、肩を痛め、8年目の57年から野手に転向し、いきなり5番を打った。現役最後の65年の1年間だけは、巨人に在籍した。「すらっとした体形で美男子。紳士服メーカーの広告のモデルを務めたほどで、当然女性にもモテました」と深澤さんは明かす。

 グラウンドの内にも外にも数々の伝説を残し、球界のレジェンドがまた1人、この世を去った。(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)

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