「世界の盗塁王」と2度トレードされた男・プランク

歴代最多の1406盗塁と2295得点を記録し、2003年限りで現役を引退した「世界の盗塁王」ことリッキー・ヘンダーソンと2度にわたってトレードされた男がいるのをご存じだろうか。その男の名はエリック・プランク。メジャー14年のキャリアで通算714試合に登板し、72勝を挙げたリリーフ右腕である。殿堂入りの名外野手・ヘンダーソンとの2度のトレードは、どのように起こったのか。簡単に振り返ってみよう。

1984年オフ、同年のシーズンで77勝85敗(地区4位)に終わったアスレチックスは、5年連続盗塁王、オールスター・ゲーム選出4度とすでにスター選手としての地位を確立していたヘンダーソンの放出を画策していた。ヘンダーソンが1年後にフリーエージェントとなり、アスレチックスには契約延長の意思がなかったからだ。

ヤンキースのほか、オリオールズ、ドジャース、レンジャーズなどがヘンダーソンの獲得に動き、最終的にアスレチックスはヘンダーソン、バート・ブラッドリー、金銭とのトレードでヤンキース傘下の有望株トップ5のうち4人を含む5選手を獲得することに成功。そのうちの1人が当時ヤンキース傘下A級に所属していたプランクだった。

ヘンダーソンを獲得したヤンキースは、5年総額850万ドルの大型契約を与え、ヘンダーソンは球界3番目の高額年俸選手となった。一方、アスレチックスも交換要員の目玉だったホゼ・リーホこそアスレチックスで大成できなかったものの、ジェイ・ハウエルはクローザーを務めて3年間で2度のオールスター・ゲーム選出、スタン・ハビアーは俊足攻守の控え外野手としてメジャー定着、ティム・バートサスは移籍1年目に10勝をマーク、そしてプランクは1986年にメジャーへ昇格してブルペンの貴重な戦力になるなど、「ヘンダーソンの残り1年分」の対価としては十分すぎるほどの成果を上げた。

そして、1989年6月に、今度はヤンキースが売り手、アスレチックスが買い手として2度目のトレードが成立する。ヤンキースとの契約最終年を迎えたヘンダーソンは65試合で打率.247、25盗塁という低調なパフォーマンスに終始し、ヤンキースは放出を画策。ヘンダーソンはトレード拒否権を持っていたが、古巣アスレチックスへのトレードを受け入れ、グレッグ・カダレット、ルイス・ポローニア、そしてプランクの3選手が交換要員となった。

ヘンダーソンは移籍後の85試合で打率.294、52盗塁の活躍を見せただけでなく、ポストシーズン9試合でも打率.441、3本塁打、11盗塁の大暴れ。リーグ優勝決定シリーズのMVPに選出され、チームをワールドシリーズ制覇へ導いた。その後、アスレチックスと4年総額1200万ドルの大型契約を結び、翌1990年には自己最高のOPS1.016をマークしてアメリカン・リーグMVPに選出された。

一方のプランクも、ヤンキース救援陣の一角を担い、1992年からはインディアンス救援陣の中心的存在として活躍。1993年には自己最多の70試合に登板し、15セーブ、防御率2.79の好成績をマークした。36歳となった1999年シーズン終了後に現役を引退。ヘンダーソンのメジャーでのラストイヤーは、それから4年後の2003年(当時44歳)だった。

ちなみに、14年のキャリアのなかで829人の打者と対戦したプランクが最も多く対戦したのはカル・リプケンJr.だったが、対戦が2番目に多かったのがヘンダーソンだった。38度対戦し、5安打に抑えたプランクだが、ヘンダーソンはプランクから15個の四球を選び、出塁率は.526という高率。直接対決は、抜群の選球眼を誇ったヘンダーソンに軍配が上がったと言えそうだ。なお、プランクはヘンダーソンと2度トレードされたことについて「自分とトレードされた男が殿堂入り選手になってくれたのは嬉しいよ」と語っている。

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