黄金の6年間:サザンの「チャコの海岸物語」は桑田佳祐の確信犯的照れ隠し? 1982年 4月15日 サザンオールスターズのシングル「チャコの海岸物語」がザ・ベストテンで1位を記録した日

人が時代を作るのか、時代が人を作るのか?

人が時代を作るのか、時代が人を作るのか――
よく言われる命題である。例えば、戦国時代の三傑と言えば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人を指す。彼ら3人がいたから、戦乱の世は統一されたのか。あるいは、戦乱の世が彼ら3人に活躍の場を与えたのか。

幕末維新の三傑はどうだろう。木戸孝允(桂小五郎)、西郷隆盛、大久保利通がそう。彼ら3人が維新を呼び寄せたのか、あるいは、幕末の世が彼ら3人に活躍の場を与えたのか。

実は、この命題は答が出ている。後者の「時代が人を作る」が正解である。もし秀吉が泰平の世に生まれていたら、一生農民として暮らし、歴史の1ページを刻むことなく、その生涯を閉じていただろう。また、西郷家も大久保家も、薩摩藩の下級藩士の家柄である。平和な時代であれば、2人はさしたる活躍もせずに、一生を終えていただろう。

時代が人を作り、人が時代を作った「黄金の6年間」

ならば、黄金の6年間はどうだろう。「黄金の6年間」とは、僕がこの Re:minder で昨年1月から定期的に書いているシリーズコラムのタイトルである。1978年から83年までの6年間、東京が最も面白く、猥雑で、エキサイティングだった時代を指している。

その時代、音楽をはじめ、テレビ、映画、小説、漫画、アニメ、広告、雑誌、演劇、ファッションなどの様々なカルチャーが街を舞台にクロスオーバー(化学反応)を重ね、数多くの人材が輩出された。例えば、黄金の6年間の最初の年には、YMO がデビューを飾り、ユーミンが年2枚のアルバム制作を開始、村上春樹が神宮球場で “ヤクルト×広島” 戦の最中に小説を書くことを思い立った。

それらの事象は一見、バラバラに映る。しかし、東京を舞台にしていること、新しい時代の息吹を感じることで一致している。そう、カオスな時代が彼らをおびき寄せ、覚醒した彼らが時代を作ったのだ。その意味で、黄金の6年間は、時代が人を作り、また人が時代を作ったと言える。そこに主従関係はない。

黄金の6年間の申し子、サザンオールスターズ

あのグループも、実は黄金の6年間の申し子である。1978年6月25日に「勝手にシンドバッド」でデビューしたサザンオールスターズだ。時代が彼らをおびき寄せ、そして彼らが新しい音楽を作った。

彼らの登場は鮮烈だった。一般に僕らがサザンを知るのは、同年8月31日に『ザ・ベストテン』の「今週のスポットライト」に新宿ロフトからの中継で、黒柳徹子サンの「あなたがたはアーティストを目指していらっしゃるんでしょうか?」の問いに、上半身裸の桑田佳祐サンが「いいえ、目立ちたがり屋の芸人でーす!」と答えた瞬間である。

後に日本の音楽史に名を遺す偉大なバンドは、コミックバンドさながらの鮮烈な自己紹介から始まった。カオスな時代ゆえの伝説である。

職人・桑田佳祐、大ヒットシングル「いとしのエリー」の地に安住せず

サザンの評価が一変するのは、翌79年のサードシングル「いとしのエリー」だ。それまで学生バンドの延長くらいに軽く見ていた僕らは、一聴して梯子から転げ落ちた。完璧なラブバラードだった。天才的メロディメーカー・桑田佳祐を思い知らされた瞬間だった。年末には、同曲で『NHK紅白歌合戦』の初出場も果たし、サザンは華々しいスターへの階段を上り始めた。

だが、ここで僕らは再び梯子を外される。彼らは「いとしのエリー」の地に安住せず、翌80年、突如テレビの露出を控えてスタジオにこもり、「5ヶ月間、毎月1枚ずつシングルを出す」と、無謀な計画をぶち上げたのだ。結局、それはひと月だけ遅れたものの、無事5枚をリリース。職人・桑田佳祐の硬派な一面を知らされた。

そんな職人路線が裏目に出たのか、セールスは低迷。それは翌81年も引きずり、6月にリリースされた「Big Star Blues (ビッグスターの悲劇)」に至っては、オリコン49位。5枚のシングル販売も累計4.6万枚と、サザン史上ワーストに沈む。一方、その間に出された2枚のアルバム『タイニイ・バブルス』『ステレオ太陽族』は共にオリコン1位。サザンは、アルバムアーティストとしての地位を確立したかに見えた。

真冬にリリースされた「チャコの海岸物語」翌月には原由子との結婚披露宴

そして翌82年1月21日、彼らにとって14枚目のシングルが発売される。「チャコの海岸物語」である。意外と知られていないが、「チャコ海」は真冬にリリースされた。そう、全てはそこから始まっていた。聴くと―― 意外にも、かつてのグループサウンズを彷彿させる歌謡曲だった。僕らにとって、2年ぶり3度目の梯子が外された瞬間だった。

 海岸で若い二人が 恋をする物語
 目を閉じて 胸を開いて
 ハダカで踊るジルバ

実は、同曲はすぐに火が点いたワケではない。『ザ・ベストテン』に9位でランクインするのは3月4日。リリースからおよそ一ヶ月半も開いている。この間、何があったのか。2月28日―― 桑田佳祐・原由子の結婚披露宴である。

 恋は南の島へ翔んだ
 まばゆいばかりサンゴショー

原坊の前で歌われたのは “チャコ海” じゃなくて “エリー”

なんと、東京プリンスホテルにて行われた披露宴には、サザンのファンクラブの会員3000人が招待されたという。3000人というと NHKホール並みだ。もはやコンサートと変わりない。実際、桑田サンは原坊の前で、あの歌を披露している。

え? そこで「チャコ海」をやったんだろうって?
いや、違う。歌われたのは「いとしのエリー」だった。しかも “エリー” を “ユウコ” に変えるという、凡百の一般人がやりそうなド定番の替え歌だったが、何せ本人である。

しかし、その披露宴から間もなく、あの曲が『ザ・ベストテン』にランクインする。今度こそ、「チャコの海岸物語」である。

 心から好きだよ チャコ
 抱きしめたい
 だけどもお前はつれなくて

歌謡曲へのオマージュ、グループサウンズ全開の曲調… とはいえ?

ここに登場する “チャコ” とは、サザンが所属するレコード会社のビクター音楽産業(現・ビクターエンタテインメント)のディレクター(当時)で、元歌手の飯田久彦サンの愛称。なんと、チャコは男性だった。ちなみに、2番に登場する “ミーコ” は弘田三枝子、3番の “ピーナッツ” はザ・ピーナッツが元ネタ。お三方とも、昭和30年代に洋楽をカバーしたヒット曲を持つ点で共通している。

そう、「チャコ海」は確信犯的に日本の歌謡曲へのオマージュソングだった。曲調はグループサウンズ全開。実際、加山雄三サンも同曲をカバーしているが、見事な湘南サウンドに仕上げている。YouTube で聴けるので、機会があったらぜひ。

とはいえ、タイミング的に、それは桑田佳祐・原由子の結婚を祝福する歌と世間に誤解され、一気に火が点いた。3月4日の9位に始まり、6位、3位と上昇し、途中、中村雅俊サンの「心の色」に阻まれて3週間2位に止まるも、7週目の4月15日―― そう、今から38年前の今日、念願の1位に。「いとしのエリー」で最後に1位を取ってから、実に2年9ヶ月ぶりだった。

桑田佳祐の確信犯的照れ隠し、結婚ソングをパロディ化?

思うに、「チャコ海」は桑田サン流の照れ隠しだったのではないか。

2人の結婚のタイミングと重なるシングルのリリースは、どうしても色眼鏡で見られがちだ。ならば、こちらから結婚ソングをパロディ化してやろうと。そのために、日本の歌謡曲へのオマージュも込めて、グループサウンズ風に仕上げる。でも、マジに取られたら困るから、1月リリースだったり、相反するスーツ姿で歌ったりと、“サイン” も忘れない。そう考えると、この年の『紅白』で、歌謡界の重鎮・三波春夫サンに扮して、ふざけまくったのも合点がいく。全ては照れ隠しだ。

後年、桑田サンが「チャコ海」を意識的に避けるのも、「チャコ海」はあの年に歌うから意味があったのであって、ジョークを後から説明するのが無粋なように、ネタ晴らし的に歌うのに抵抗があるからかもしれない。

ただ、桑田サンは1つだけ致命的なミスを犯した。それは、いかなる経緯で作られたにせよ、「チャコ海」は類まれなる名曲であること――。

天才ゆえの誤算である。

カタリベ: 指南役

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