ジェネシスとドゥービー・ブラザーズ、変化に適応したものが生き残る! 1986年 6月6日 ジェネシスのアルバム「インヴィジブル・タッチ」が英国でリリースされた日

ジェネシスの活動再開! 気になるメンバーたちの現在

先日、イギリスのロックバンド、ジェネシスが活動を再開し、この秋、ツアーが計画されているというニュースが流れてきた。プレス写真からはマイク・ラザフォード、トニー・バンクス、フィル・コリンズのメンバー3人の健在ぶりがうかがえるが、フィルにはまだ頸椎を痛めた後遺症から演奏に不安があり、ドラムスは息子のニコラスが務めるという。

バンドの再結成にあたり、息子がドラマーを務めるといえば、故ジョン・ボーナムの息子、ジェイソンとレッドツェッペリンのことを思い出す。偉大過ぎる父親を持ち常に比較される苦労は絶えないだろうが、昨年実施されたフィルの復活ツアーにも帯同したということだから、多少の身びいきがあったとしても、一応ドラミングの腕前は折り紙付きと思われる。

独自の存在感を放ったピーター・ガブリエルの脱退

グループの活動再開にあたっては、いまだにかつてのフロントメンバーであるピーター・ガブリエルの復帰待望論が聞かれるが、我々80年代からのリスナーにとっては、見当違いのように思えてならない。確かに彼が在籍した70年代前半まで、ジェネシスはイエスや ELP、キング・クリムゾン、ピンク・フロイド等と並んで、英国を代表する5大プログレバンドとして並び称されていた。ピーターが時折メイクアップをしたり、かぶり物まで使って繰り広げたパフォーマンスは、シアトリカル(演劇)ロックとして独自の存在感を放っていた。後にリードを務めることになるフィルの歌声は、まだ引き立て役に過ぎなかったが、二人のユニゾンによるヴォーカルの響きは、今聴いても引き込まれるような魅力がある。

だが1975年、ピーターは心血を注いで完成させたアルバム『眩惑のブロードウェイ(The Lamb Lies Down on Broadway)』を残してジェネシスを脱退する。全米ツアーの不調とバンドのフロントマンとしての重圧、家族のことで悩みを抱えていた彼は自ら身を引くことを決意した。やがてマイク、トニー、フィルの3人となったジェネシスは結束を強めながら、その後の難局を乗り切っていく。この間、パフォーマンス面でバンドをリードする立場となったフィルは、ソロ活動を通じて R&B やフュージョンの分野にも造詣を深め、POP化路線を推し進めていった。

80年代の認識は、ジェネシス=フィル・コリンズのバンド?

僕ら世代が洋楽を聴きかじり始めたのは概ねこの頃のことで、その関心は主に全米チャートに向いていた。レッド・ツェッペリンやクイーンは知っていても、それはあくまでアメリカで成功を収めたバンドとしてのことが多かった。だから僕らがジェネシスの存在をはっきりと認識できたのはシングル「ザッツ・オール」が全米チャートで初のトップ10ヒットを飾る1983年頃のこと。

その時フィルは、既に2枚のアルバムを全米チャートのトップ10に送り込み、モータウンナンバーであるシュープリームス「恋は焦らず(You Can’t Hurry Love)」もカバーし、大ヒットさせていたから、僕らの中では “ジェネシス=フィル・コリンズのバンド” という認識でいたのは無理からぬことなのだ。

フィル・コリンズの成功、実に7曲もの全米ナンバーワンヒット!

彼がメンバーとして時折不当に評価されがちなのは、これらの華々しいソロの成功と無関係ではないと感じている。1984年には映画主題歌としてヒットした「見つめてほしい(Against All Odds)」で、それまでグループですら成しえなかった全米No.1を獲得すると、1990年のグラミー賞で年間最優秀レコード賞」を獲得した「アナザー・デイ・イン・パラダイス」まで、実に7曲もの全米No.1ヒットを放っていた。

曰く、彼のことをソロ優先でグループを顧みなかったとか、メンバーとの確執があったとか、人々はとかく、ソロで成功したアーティストたちに厳しい目を向けがちである。典型的な声は商業的な成功を望むあまり、ピーター・ガブリエルと共に築いたアイデンティティを軽視して、長年のファンを裏切った… というものだ。

プログレ時代の終焉、新機軸を明確に打ち出していったジェネシス

だがどうだろう。80年代に入ってからというもの、プログレの時代は終焉を迎え、POP化路線を歩んだのはジェネシスだけでなく、もはや時代の趨勢であった。ほぼ1曲で LP の片面を埋め尽くしてしまうような大作や、アルバム全体を通じて壮大な物語を描くような試みは、既に見られなくなっていた。

むしろグループの新機軸を明確に打ち出していたジェネシスは、試みのうちにうまく時流を捉えていたといえるだろう。1984年リリースのアルバム『ジェネシス』は、全米チャートで初めてのトップ10ヒットとなり、次作『インヴィジブル・タッチ』でも成功を重ねた。また他のメンバーのソロ活動も好調で、マイク・ラザフォードによるプロジェクト “マイク&ザ・メカニックス” も大きな成果を上げた。この頃のフィルは八面六臂の活躍で、ソロはソロとして自分の可能性を追求し、一方ではジェネシスのフィル・コリンズとして、バンドにも多大な相乗効果をもたらしたといえるのではないだろうか。

アメリカンロックの雄、ドゥービー・ブラザーズの成功と存続の危機

ところで、日本テレビ系情報番組『シューイチ』のオープニングナンバーは、ドゥービー・ブラザーズのヒットナンバー「チャイナ・グローブ」だ。実はバンド名の “ドゥービー” とは、マリファナの俗称で、その名称を訳すと言わば “マリファナ兄弟(仲間)” のような意味になる。

芸能界の違法薬物関連のニュースが流れるたびに、そのアーティストの楽曲や映像を隠してしまう一方で、そんな名前のバンドの曲を流れているのには多少違和感を覚えるが、気に留める者もなければ、作品に罪はないといったところだろうか。この “ドゥービーズ” もまた主要メンバーの離脱がきっかけで大きく音楽性が変わったバンドである。

創設メンバーで音楽的支柱のキーマン、トム・ジョンストンの離脱

彼らがメジャーシーンに登場するのは、1972年のヒットナンバー「リッスン・トゥ・ザ・ミュージック」。同年デビューのイーグルス「テイク・イット・イージー」とともに、70年代を代表するアメリカンロックの象徴的な存在となった。

当時、バンドの楽曲の多くを手掛けたのは中心メンバーであるトム・ジョンストン。前出の2曲の他にも、日本でもクルマのCMに何度も使用されたことがある名曲「ロング・トレイン・ランニン」もバンドの代表作となっている。この曲の導入部で印象的なカッティングの演奏を主に担当しているのは彼自身であり、グループのリーダーであるパトリック・シモンズとのツインギターに、ツインドラムスという編成から繰り出される大迫力のサウンドがドゥービーズの売りである。

創設メンバーでもあるトム・ジョンストンはドゥービーズの音楽的支柱であり、まさに初期のジェネシスにおけるピーター・ガブリエルと同様の役割を果たしていていた。だが彼はバンド名よろしく、深刻なドラッグ中毒に陥ってしまい、治療のために長期休養を余儀なくされる。それが1975年、奇しくもピーター・ガブリエルがジェネシスを去ったのと同じ年のことだ。英米2つのバンドはほぼ同時に存続の危機を迎えたというわけである。

マイケル・マクドナルドがもたらしたドゥービーズの変革

柱を失ったドゥービーズがジェネシスと違ったのは、直ちに代替メンバーを加入させたことだ。そこで元スティーリー・ダンのメンバー、ジェフ・バクスターの伝手で加入してきたのが、マイケル・マクドナルドである。キーボーディストである彼は当然ながら前任者とは音楽に対するアプローチが大きく異なるはずだが、それでもメンバーは新加入のマイケルにバンドの命運を託していく。助っ人がいきなり主砲を任されるとは、貧打線にあえぐ日本のプロ野球チームのようだが、マイケルはすぐさま期待に違わぬ結果を出してみせた。

我々の世代が彼らの楽曲を初めてリアルタイムで耳にするようになったのは、やはりこれ以降のことだ。「ミニット・バイ・ミニット」でドゥービーズを知った僕らは、その音楽を何ら違和感なく受け容れたが、初期のファンの人たちはマイケル加入後のアルバム『ドゥービー・ストリート(Takin' It to the Streets)』を初めて聴いた時、リードギターが絡んでこないイントロを耳にして、大きな衝撃を受けたに違いない。

グラミー賞の主要2部門を獲得「ホワット・ア・フール・ビリーヴス」

時を同じくして、ドゥービーズと共に世に出てきたイーグルスは『ホテル・カリフォルニア』で “ニュー・フロンティア” は幻想だったと歌った。アメリカのミュージックシーンは70年代後半に入ると、鬱屈した社会の空気感を反映して、ウエストコーストサウンドに象徴されるアメリカンロックの大らかさを失いつつあった。そこに登場したのが、その対極にある大人びた都会の音楽、アダルトコンテンポラリーや AOR といったジャンルの音楽だ。元々フュージョンやソウルに素養のあったマイケルが紡ぎ出すサウンドは、この時流に見事にはまっていた。

代表作「ホワット・ア・フール・ビリーヴス」は1979年グラミー賞の年間最優秀レコード賞と楽曲賞の主要2部門を獲得。“助っ人” マイケル・マクドナルドは、見事に主砲の役割を果たし、3割30本のノルマを果たしたどころか、ホームラン王と打点王のタイトルまで獲得してしまったかのようだった。一方、故障のため戦列を離れていたチームの “元4番” トム・ジョンストンは治療を終え、無事に復帰を果たすものの、既に戻るべきポジションを失い、再び自らバンドを去ることを決意する。

ジェネシスとドゥービー・ブラザーズ、2つのバンドの共通項とは?

マイケルはフロントメンバーとして、結果を出すために、持てるもの全てをグループに注ぎ込んだ。彼がソロになっても、その音楽性は終始一貫していたから、その意思を感じることができた。また変革を恐れず、彼を招き入れる決断をしたパトリック・シモンズのリーダーシップもまた称賛に値する。

パトリックは1982年にグループが解散した後もメンバー達と良好な関係を築き、それはやがて1987年、オリジナルメンバーによる再結成の実現へと実を結ぶことになる。そして現在もシモンズ、ジョンストンの二人に加え、再活動期からグループに参加したジョン・マクフィーと、こちらもジェネシス同様、3名となったドゥービー・ブラザーズは、今年も精力的にツアーを行っている。相変わらずソロで活動中のマイケル・マクドナルドもメンバーとしてステージに加わることもあるというから、彼らの関係は極めて友好的なものなのだろう。

ジェネシスについても同じことがいえる。かつて自らバンドの活動に見切りを付けたピーター・ガブリエルが、再びグループに戻るとは思えない。だが彼らはステージでの競演こそないものの、共に公の場に姿を見せることもあり、その関係は良好であるという。グループとソロ、それぞれで成功を収めた両者が、未だ心情的に結び付いているのは、リーダーとしてグループを束ねるマイク・ラザフォードの存在あってのことだ。

生き残る種とは、変化に適応したもの?

進化論を唱えたチャールズ・ダーウィンは「生き残る種とは、強いものでも、知的なものでもない。それは、変化に適応したものである」と言ったとされる。そして僕らが、前後期で相反するといわれる彼らの音楽の両方を、たやすく受け容れることができるのは、その転換期の真っただ中で、その音楽に触れることができたという、巡り合わせのおかげなのかも知れない。

カタリベ: goo_chan

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