長崎大熱帯医学研究所 伝統を受け継ぐ専門機関 新型コロナ対策 一翼担う 長崎と感染症の歴史(下)

新型コロナウイルスに対し「蓄積を生かし、新しい予防、診断、治療ツールを開発していくのが使命」と語る森田所長=長崎大熱帯医学研究所熱帯医学ミュージアム

 江戸時代以来、国際感染症と西洋の先端医学が海外から流入する窓口となっていた長崎。長崎大(長崎市)には、その医学研究の伝統が現在まで継承されている。このうち、同大熱帯医学研究所(熱研、森田公一所長)は、熱帯感染症を専門とする国内唯一の公的研究機関。1967年、前身の風土病研究所が改称して発足し、現在の新型コロナウイルス研究でも役割を担っている。発足の経緯や歩みを振り返った。

 ■風土病から
 幕末に赴任したオランダ海軍医ポンペが1857年11月12日、長崎に医学校を開き講義を開始した。長崎大医学部は、この日を創立記念日としている。変遷を経て1923年、長崎大医学部の前身である長崎医科大が発足。42年、同大に「東亜風土病研究所」が付設される。
 風土病とは、特定地域で流行を繰り返す寄生虫病などの感染症。2017年刊行の「熱研75年の歩み」によると、日中戦争を背景に、中国大陸でコレラ、チフス、赤痢といった風土病の研究を進めた。だが、予定された同研究所の施設建設は45年8月9日の長崎原爆で実現しなかった。
 終戦後の46年に風土病研究所(風研)と改称し、国内の風土病研究、対策に移行。同5月から諫早市に移転して研究活動を再開。49年には新制長崎大の付置機関となり、59年に長崎市に移転。61年に同市坂本1丁目の現在地に移った。

 ■長崎県に特有
 風研が戦後存続した一因には、本県に特有の風土病の多さがあったとされる。本県の離島やへき地には古くから、フィラリアなどの寄生虫病、成人T細胞白血病(ATL)などのウイルス病といった、多くの風土病が存在した。
 60年代にかけ、風研は五島列島などでフィラリアの感染防止に取り組む。フィラリアは、糸状の寄生虫が人のリンパ管に寄生して起きる。蚊を媒介に幼虫が人間の体内に侵入し成虫に。成虫が無数の子虫(ミクロフィラリア)を産み、感染者から吸血した蚊が子虫を取り込むことで、さらに感染が広がる。悪化するとリンパ浮腫や、足が象のように腫れ上がる「象皮病」といった症状が出る。
 フィラリアの子虫は、夜間しか感染者の血液で活動しないという不思議な特徴がある。風研の研究者は、夜に住民から採血して感染診断を実施。駆虫薬を飲ませて感染者を減らしていく手法で、征圧を進めた。熱研発足後の70年からソウル大と連携し、韓国・済州島でも征圧を展開した。

 ■国際協力へ
 当時、五島や済州島で指揮に当たった熱研第2代所長の故片峰大助氏は、長崎大前学長の片峰茂氏(長崎市立病院機構理事長)の父。学生時代、済州島でのフィールドワークに同行したという茂氏は「父は長崎からフィラリアを撲滅したいと考え、薬の副作用に抵抗もある中で住民を説得したと聞く。韓国では日本への不信感から信用してもらえず、苦労したそうだ。初期の研究者らの取り組みが、現在までの国際協力につながっている」と振り返る。
 国内では60年代にかけ、風土病根絶や衛生環境の充実による感染症の減少が進んだため、文部省(当時)内には風研の存在意義に厳しい評価があったという。風研は64年、京大調査隊に参画して東アフリカに赴くなど、徐々に熱帯感染症の研究に移行。67年の熱研発足につながる。
 66年から国際協力機構(JICA)の前身である海外技術協力団(OCTA)の事業で、ケニア中西部ナクルの州立病院での医療協力を開始。熱研や同大医学部の医師が現地に赴き、診療や研究に当たった。75年まで続く医療協力は、シンガー・ソングライターさだまさし氏の「風に立つライオン」のモデルとなり、小説、映画にもなった。

現在の長崎大熱帯医学研究所=長崎市坂本1丁目

 ■蓄積を活用
 熱帯感染症はアフリカ、アジアなどで今も猛威を振るい、さらにエイズ(後天性免疫不全症候群)やエボラ出血熱といった新興感染症が登場。熱研は海外にも拠点を設け、こうした多様な感染症の研究を続けている。2003年の重症急性呼吸器症候群(SARS)、今回の新型コロナウイルスについても、最前線の研究機関の一つだ。
 ウイルス学の専門家で、アフリカで西ナイル熱などの研究に当たってきた森田所長は「60年代には(風研の)廃止も検討されたが、当時の所長らが『熱帯地域との友好に向けて、熱帯病の研究所としての役割がある』と訴えた。先見の明があったと思う」と先人の労をしのぶ。「蓄積を生かし(新型コロナに対する)新しい予防、診断、治療ツールを開発していくのが熱研の使命だ」と語った。


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