ここ一番の勝負どこ、ビリー・ジョエルの初来日は中野サンプラザの昼公演! 1978年 4月23日 ビリー・ジョエルの初来日公演が中野サンプラザで開催された日

大出世アルバム「ストレンジャー」と、ビリー・ジョエル初来日公演

ビリーの初来日公演は1978年4月23日東京中野サンプラザ、24日大阪厚生年金会館の2会場だけでした。ちなみにビリーの大出世アルバム『ストレンジャー』はアメリカでは1977年9月末に発売されており、10月からスタートしていた『ストレンジャーツアー』の最後を締めくくるカタチで翌1978年4月の日本公演が行われました。

実は日本でのアルバム発売は1978年1月21日です。日本独自での第一弾シングル「ストレンジャー」は前年に先行してリリースされていましたが、アルバムは本国よりも4か月近くも遅れての発売でした。つまり、それまでのビリーにはアルバムセールスの実績が全くなかったということで、急いで発売することもなかったということが分かります。

ただ今回の作品に関しては、「ストレンジャー」のインパクトある口笛や、「素顔のままで(Just the Way You Are)」のフェンダー・ローズが奏でる素晴らしいイントロに部員一同テンションあがり発売前から、チャンスが来ればいつでも宣伝攻撃態勢に転じる準備だけはしていました。

来日公演の攻防戦、プロモーターとマネジメント

ビリー達は3月にアジア・パシフィックツアーとしてオーストラリア・ニュージーランド公演を決めており、その帰りの4月になんとしても日本にも立ち寄り、少しでもビジネスの足しにしたかったようです。この打診がウドー音楽事務所に入ったのは年明けすぐ。アルバム発売前です。もちろん彼等はCBSソニーの担当者とも相談していますが、いくら今度は売れそうだ、とは言っても、この時点では実績はまだありません。相談のうえ時期尚早として断っています。

1枚のアルバムに二千数百円出してくれるユーザーが、どのエリアにどのくらいいるのかは、レコード会社だけでなく興行会社にとっても大事なデータでしたし、いくらヒット曲があったとしても、アーティストの人気がどのレベルなのかの見極めは、興行の最大の鍵だったはずです。この段階ではビリーの興行はあまりにもリスキーです。これは当然の判断でした。

しかし、断られてもビリー側も粘ります。「ギャラはいらない。航空券とホテルだけ持ってくれれば日本に行く」と。これとて決して安いものではありませんが、リスクも下がるし、そこまで言うなら… とウドー音楽事務所もざっと会場をあたってみたのですが、彼等が希望する日程に、東京の会場が見つかりません。会場がないことには話にはなりません。今度は会場がないので、という理由で2度目の断りを入れてます。

全米でチャート急上昇! 日本でも見えたブレイクの兆し

それでもビリー側は粘っていたのですが、そういうやりとりをやっている最中、アメリカ最大の人気音楽番組 NBCの『サタデー・ナイト・ライブ』に彼らは出演。この出来事でビリーはアメリカで完全に大ブレイクしたのです。

アルバムもチャート急上昇。シングル「素顔のままで」はTOP100(Cash Box)の2位まで上がりました。日本でもアルバム発売直後から売れ始めています。ちなみに、番組放送日の1978年2月18日は、アメリカのビリー・ファンにしてもブレイク記念日として認識されているようです。

このアメリカでの大ブレイクを目の前にすると、断っている場合ではなくなりました。ウドー音楽事務所は慌てて交渉を再開しましたが、今度はどれだけ真剣に探しても東京に会場が見つからないのです。日本でもブレイクの兆しが見えてきました。逃した魚はでかいです。なんとかしなければいけません。

洋楽興行界前代未聞、会場はスコーピオンズ公演の昼間を使え!

たまたまウドー音楽事務所は4月23日から始まるスコーピオンズ初来日公演のために、中野サンプラザホールを数日おさえていたのですが、そこはビリー側が希望する期間内でもありました。彼らの誰が言い出したのかは定かではありませんが、そこに必殺のアイデアが飛び出たのです。

23日は日曜日ということもあり「よし、23日の昼間にやろう!」と。

当然、ウドー音楽事務所内部でも侃々諤々あったはずですし、会場を貸している中野区としても驚きです。マチネ公演(昼公演)はよくあるとしても、昼夜別のアーティストが同じ会場でやるなんて洋楽興行界前代未聞の出来事でした。

ただ、23日はスコーピオンズにしても初日ですし、ビリーのライブに少しでもおすわけ… というわけにもいきません。前日深夜過ぎてから PA、照明の搬入をやったのではないかと思います。今時なら無理でしょうが、この時代ですから、このあたりの機材を2アーティストで共有することでコストもセーブできたはずですね。

こうして、チケットは2月に発売を開始しました。アルバムもヒットし始めたタイミングでもあり、発売と同時に数時間で完売しました。私は当時著作権部門にいて、作家としてのビリー・ジョエルの売り込みをやっていました。その関係でCBSソニー以外のレコード会社の国内制作のディレクター数名を招待するためのチケット確保に苦労していました。

見事なスピード、ビリーの後はスコーピオンズにセットチェンジ

さて、ビリーのライブスタートは午後2時ですから、当日早朝から楽器類のセッティングをやってサウンドチェック、そしてリハーサルと、遅くとも13時までには全ての作業が終わってなければいけません。

それにしても、興行会社のプロダクションスタッフの仕事のスピードにはいつも驚かされていました。セットアップはさることながら、公演終了後の撤収作業は特に速いです。会場の搬出時間が限られているなかで、アーティストが興にのって延々アンコールなど繰り返したらそれは大変です。スタッフはいつも冷や冷やしながらスタンバっているはずです。

それでも、ライブが終了した後、楽屋で挨拶をしている間にほとんど片付いていました。統制のとれたチームの動きは、まさにプロフェショナルであると、いつも感心していました。とはいえ、ビリーのライブが終わってからのステージ上のセットチェンジは大変だったはずです。

熱狂的な2時間のステージ、サクセスストーリーの第1章

記憶がやや怪しいのもありますが、当日は春の交通ゼネストだったと思います。にもかかわらず、観客達は普通に集まり時間通りにスタートしています。ライブ前は静のイメージだったビリーですが、ライブ後にはロックンローラー的な動の姿を焼き付けてくれました。

この熱狂的な2時間のステージを目撃した東京と大阪の4,000人と、ライブを観たくても観られなかった何万人、そしてこの来日の模様の熱いレビューが、この後に続くサクセスストーリーの第1章でした。

※編集部より:ビリー・ジョエルのグラミー賞受賞年に関して事実誤認がありましたので、お詫び申し上げるとともに、訂正(削除)いたしました(2020.4.24)。

カタリベ: 喜久野俊和

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