「村上春樹を読む」(103)象徴的暗号のような俳句 『猫を棄てる 父親について語るとき』

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『猫を棄てる 父親について語るとき』文藝春秋

 この原稿を書いている時点では、新型コロナウイルス感染拡大で緊急事態宣言が全国に出されていますが、この「村上春樹を読む」の読者のみなさんは、いかがお過ごしですか。

 読者の方々がコロナウイルスに感染しないことをお祈りします。多くの感染者が出ているので、このコラムを読んでいる方の中にも、もしかしたらコロナウイルスに感染した人がいる場合もあるかと思いますが、その方々の快復の早いことをお祈りいたします。

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 さて、村上春樹が自らのルーツについて初めて綴った特別寄稿として話題となった文章が『猫を棄てる 父親について語るとき』というタイトルで4月末刊行されました。昨年の月刊「文藝春秋」2019年6月号に掲載された時は「猫を棄てる 父親について語るときに僕の語ること」という題名でしたが、少しだけ短くなりました。

 コロナウイルスの感染拡大による緊急事態宣言で、休業する書店もありますが、予定通り刊行され、Amazonなどを見ると、ベストセラーとなっているようです。

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 この単行本となった『猫を棄てる 父親について語るとき』には、台湾の若手女性漫画家でイラストレーター、高妍(ガオ・イェン)さんの素敵な絵が表紙の装丁にも本文中にもたくさん使われています。高妍さんは1996年台湾・台北生まれ。台湾芸術大学卒。沖縄県立芸術大学に短期留学したこともあるそうです。『猫を棄てる 父親について語るとき』の「あとがき」で、村上春樹は「高妍さんの画風に心を惹かれ、彼女にすべてを任せることにした。彼女の絵にはどこかしら、不思議な懐かしさのようなものが感じられる」と書いています。

 台湾・台北中央社の高妍さんへのインタビューによると、この本のデザイン担当者の目に高妍作品がとまり、複数の候補の中から村上春樹が選んだようです。高妍さんの自費出版漫画『緑の歌』は『ノルウェイの森』に出てくる「緑」という女性から名がとられているようですから、村上春樹作品のファンでもあるのでしょう。

 絵を見ていると、空などの空間が高く、遠く描かれているので、ほんとうに「不思議な懐かしさ」を感じます。高妍さんは日本の浮世絵の研究をしていた時期もあったそうで、その空間把握に浮世絵の影響があるのかもしれません。

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 村上春樹が、自分の父親の中国従軍体験を詳しく調べて書いた、この『猫を棄てる 父親について語るとき』については、雑誌発表時に2回連続で「村上春樹を読む」で紹介していますので、今回は別な角度から、この作品を考えてみたいと思います。

 村上春樹の父親は京都の「安養寺」という浄土宗のお寺の次男として、1917年(大正6年)12月1日に生まれて、1936年には旧制東山中学校を卒業、18歳で、仏教の学習を専門とする教育機関・西山専門学校に入っています。

 その後、徴兵されて、中国戦線に従軍していますが、大学は京都大学に入学。戦後の1947年(昭和22年)9月に学士試験に合格し、京都大学文学部の大学院に進みましたが、結婚もし、村上春樹が1949年の1月に生まれたこともあって、学業を途中で断念せざるを得なくなり、生活費を得るために、西宮市にある甲陽学院という学校の国語教師の職に就いたことが、『猫を棄てる 父親について語るとき』に記されています。

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 その村上春樹の父親が、唯一、創作的なことに関わっていたのは「俳句」のようです。

 「父は西山専門学校に入ってすぐに俳句に目覚め、同好会のようなところに入り、当時から多くの句を残している。今風にいえば俳句に『はまった』ようだ。兵隊の頃につくった句がいくつか、西山専門学校の俳句雑誌に掲戟されている。たぶん戦地から学校に郵便で送ったのだろう」

 とあります。

 そして、『猫を棄てる 父親について語るとき』の中には、いくつかの数の父親が作った俳句が紹介されています。例えばこんな2句です。

 「鳥渡るあああの先に故国(くに)がある」

 「兵にして僧なり月に合掌す」

 この2句を挙げて、村上春樹は「僕は俳句の専門家ではないので、これらの句がどの程度の出来のものなのか、そういう判断は手に余る」としたうえで「しかしこのような句を詠んでいる二十歳の文学青年の姿を想像するのは、それほどむずかしい作業ではない。これらの句を支えているのは詩的な技巧ではなく、どこまでも率直な心情だからだ」と述べています。

 京都の山中にある学校で僧になる勉強をしていた父親が、事務上の手違いから兵役にとられ、厳しい初年兵教育を受け、三八式歩兵銃を与えられ、輸送船に乗せられ、熾烈な戦いの続く中国戦線に送り込まれました。

 「部隊は必死に抵抗する中国兵やゲリラを相手に、休む暇もなく転戦を繰り返している。平和な京都の山奥の寺とは何から何まで正反対の世界だ。そこには精神の大きな混乱があり、動揺があり、魂の激しい葛藤があったに違いない」ことを指摘した上で、

 「そんな中で、父はただ俳句を静かに詠むことに慰めを見出していたようだ。平文で手紙に書けばすぐ検閲(けんえつ)にひっかかることがらや心情も、俳句という形式――象徴的暗号と表現していいかもしれない――に託すことによって、より率直に正直に吐露することができる。それが彼にとっての唯一の、大切な逃げ場所になったのかもしれない。父はその後も長いあいだ俳句を詠み続けていた」と記しています。

 この言葉のすぐ後に、『猫を棄てる 父親について語るとき』のひとつのハイライトとも言うべき、「一度だけ父は僕に打ち明けるように、自分の属していた部隊が、捕虜にした中国兵を処刑したことがあると語った」ことが記されているのです。

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 父親の入営は1938年8月1日です。父親の部隊の上海上陸は同年10月6日です。南京戦はその前年の1937年12月ですので、村上春樹の父親は南京戦には参加していないのですが、所属部隊は中国で熾烈な戦いを続けていたのです。

 この時、村上春樹の父親は20歳~21歳。そして村上春樹の父親の部隊が中国から日本に引きあげてきたのは1939年8月20日です。父親は、そのまま兵役を終え、西山専門学校に復学しています。その直後の1939年9月1日にはドイツ軍がポーランドに侵攻し、ヨーロッパで第2次世界大戦が勃発していて、世界は激動の時期を迎えます。

 「鹿寄せて唄ひてヒトラユーゲント」(1940年10月)

 この句のことを個人的には好きだと村上春樹が記していることを以前の「村上春樹を読む」でも紹介しました。たぶんヒットラー・ユーゲントが日本を友好訪問したときのことを、句に詠んだのでしょう。

 その翌月には村上春樹の父親は、こんな句を作っています。

 「一茶忌やかなしき句をばひろひ読む」(1940年11月)

 「この句にも心惹かれるものがある。そこにあるのはどこまでも静謐(せいひつ)な、穏やかな世界だ。しかしその水面が鎮まるまでにはそれなりの時間が必要だったのだろう。そういうどことなく不穏な混乱の余韻のようなものが、句の背後にうかがえる」

 そのように村上春樹は、この句を鑑賞しています。「かなしき句をばひろひ読む」の中に、20歳で熾烈な中国戦線に投入されて戦わざるを得なかった青年の戦争で受けた心の傷と混乱の余韻を受け取っているのです。なかなか深い鑑賞です。

 この句を作った時、村上春樹の父親はまだ22歳です。そのように『猫を棄てる 父親について語るとき』には父の戦争体験と父の俳句が交互に記されていく部分があります。

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 「一茶忌やかなしき句をばひろひ読む」の句の翌1941年3月、村上春樹の父親は西山専門学校を卒業しますが、その年の9月末には臨時召集を受けています。

 そして10月3日より再び兵役に就き、歩兵第二十連隊に所属します。その後、輜重兵(しちょうへい)第五十三連隊に編入されます。輜重兵とは軍需品の輸送・補給にあたる兵です。この輜重兵第五十三連隊には、戦争末期、水上勉さんも属していたそうです。

 輜重兵第五十三連隊は、戦争末期の1944年にビルマ・インド国境地帯での攻略戦、インパール作戦に帯同しているそうです。インパール作戦は日本軍の戦死・行方不明2万2100人、戦病死8400人、戦傷者約3万人という壊滅的な戦いでした。

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 村上春樹の父親の俳句の師は俳人、鈴鹿野風呂(すずか・のぶろ)(1887年―1971年)でしたが、その野風呂の「俳諧日誌」の1941年9月30日の項に、次のようなことが記されているそうです。

 <戻りには、又降る雨にぬかるみを踏む(中略)。戻れば千秋軍事公用とのこと。

 をのこわれ二たび御盾に国の秋 千秋>

 

 「千秋」は村上春樹の父親の名前です。「軍事公用」とは召集通知郵便を受け取ったことです。「をのこわれ二たび御盾に国の秋」の俳句の意味は「男子として私は、この国の大事にあたって、二度盾となる」ということです。

 村上春樹は、そのようなことを紹介した後、「当時の状況として、このような愛国的な句を詠むしかなかったのだろうが、それでもそこには、とくに『二たび』という言葉の裏には、ある種のあきらめの心情がうかがえなくもない。本人はおそらく一学究として静かな生活を送りたかったのだろうが、時代の激しい流れはそのような賛沢を彼に許してはくれなかった」と書いています。

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 でも、村上春樹の父親は、召集から僅か2カ月後、1941年11月30日に唐突に召集解除になっています。長く従軍して、インパール作戦に関わったわけではありませんでした。11月30日といえば、真珠湾奇襲攻撃の8日前のことで「もし開戦に至ったあとであれば、そのような寛大な措置がとられることはまずあり得なかっただろう」と村上春樹は書いています。

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 なぜ召集解除となったのか、それを巡る村上春樹の記憶が具体的に記されていますが、それは『猫を棄てる 父親について語るとき』を読んでください。

 今回の「村上春樹を読む」で紹介したいのは、村上春樹の父親の戦争体験が、父親が残した俳句を通して、その句に込められた心をまるで、暗号を解読するかのように、鑑賞されているのが、とても印象的だったということでした。

 村上春樹の父親が京都大学の文学科に入学したのは、戦争末期の1944年(昭和19年)10月のようですが「ちなみに京都大学の学生であった時代にも、父はやはり俳句に打ち込んでおり、『京大ホトトギス会』の同人として熱心に活動していたようだ。『京鹿子』という俳句の雑誌の発行にも関わっていたらしく、うちの押し入れに『京鹿子』のバックナンバーが山ほど入っていたことを覚えている」そうです。

 さらに「教師になってもまだ、父は俳句に対する情熱を持ち続けていた。机の上にはいつも古い革装丁の季語集が置かれ、暇があるとそのページを丁寧に繰(く)っていた。父にとっての季語集は、キリスト教徒にとっての聖書のような大事な存在だったかもしれない。句集も何冊か出していたが、今は見当たらない」とも書いています。

 つまり、たくさんの父親の俳句の中から、『猫を棄てる 父親について語るとき』では、村上春樹が、父親の戦争体験と、戦争中の父親の心を受け取れる俳句作品を選んで、紹介しているのだろうと思いました。

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 これは村上春樹の父親の俳句とは関係ないことかと思いますが、戦時下の俳句界の動向を少しだけ紹介しておきたいと思います。

 戦争中の俳句弾圧事件として知られる「京大俳句」事件というものがあります。

 「京大俳句」会は、神陵俳句会、京大三高俳句会をへて結成されました。神陵俳句会は1919年(大正8年)、京都の旧制三高の出身者や学生で結成され、三高在学中の日野草城(ひの・そうじょう)らが参加しています。これは村上春樹の父親が生まれた2年後のことです。

 さらに翌、大正9年3月、名称を京大三高俳句会に改め、この年の夏、京都帝国大学文学部出身で、鹿児島の中学教師だった鈴鹿野風呂が、京都武道専門学校の国語教師として京都に戻って来ます。野風呂は、村上春樹の父親の俳句の師です。

 野風呂を迎えた京大三高俳句会は、この年、つまりちょうど100年前の1920年(大正9年)11月、作品の発表の場として「京鹿子(きょうかのこ)」を創刊します。創刊同人は草城、野風呂ら6人です。

 「京鹿子」の発刊時、草城、野風呂らは、高浜虚子選の「ホトトギス」雑詠欄で、注目されています。この「京鹿子」が村上春樹の家の押し入れにバックナンバーが山ほど入っていたという俳句誌です。

 京大三高俳句会の運営で注目されるのは、市井の人たちも参加したことだそうです。職種、学歴、地域にこだわらず、広く門戸を開放したことは、後の「京大俳句」にも引き継がれます。やがて「京鹿子」は関西のホトトギス系の俳誌として一大勢力になっていきます。「京鹿子」は今も続いています。

 でも、1932年(昭和7年)10月号で、「同人制の廃止」と「野風呂の個人経営の雑誌」となることが発表され、翌11月号から「京鹿子」は野風呂の主宰誌となりました。

 野風呂の主宰誌となる前に、「京鹿子」の同人たち、井上白文地、中村三山、平畑静塔らがそろって退会。翌昭和8年1月、それらの人たちをメンバーに「京大俳句」が創刊されるのです。

 「京大俳句」創刊のメンバーはいずれも、「京鹿子」で育った人たちで、編集方針も踏襲していたようですし、編集兼発行人は平畑静塔でした。顧問には「京鹿子」主宰となったばかりの鈴鹿野風呂もなっています。

 この「京鹿子」の野風呂主宰への移行と、「京大俳句」創刊との関係、また野風呂の「京大俳句」顧問の関係については、何冊かの本などを読みましたが、私(小山)には、はっきりした事情がわかりません。

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 そして「京大俳句」は次第に無季俳句容認の面が強くなり、有季定型の人たちが離れていくのですが、1940年(昭和15年)2月に「京大俳句」の平畑静塔ら会員8人が、治安維持法違反で逮捕されるという事件が起きます。五七五、たった17音の詩形表現が国家から弾圧される事件が「京大俳句」事件です。

 翌、1941年(昭和16年)2月には東京の4俳句誌の俳人、嶋田青峰、東京三(秋元不死男)ら13人が逮捕され、「京大俳句」の平畑静塔ら3人が有罪判決を受けています。そして、この年の12月には、真珠湾攻撃があり、太平洋戦争が始まっていくわけです。

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 今回の「村上春樹を読む」で、「京大俳句」事件のことを述べたいわけではありません。有季定型がいいか、無季容認がいいか、無季自由律がいいかを述べたいわけでもありません。やはり俳句も作品が大切だと思います。

 村上春樹が『猫を棄てる 父親について語るとき』の中で紹介する父親の俳句が作られた時代のことを近代俳句の歴史と重ねてみると、前に紹介したように、中国戦線従軍中の父親が「ただ俳句を静かに詠むことに慰めを見出していたようだ。平文で手紙に書けばすぐ検閲(けんえつ)にひっかかることがらや心情も、俳句という形式――象徴的暗号と表現していいかもしれない――に託すことによって、より率直に正直に吐露することができる。それが彼にとっての唯一の、大切な逃げ場所になったのかもしれない。父はその後も長いあいだ俳句を詠み続けていた」と記したこともわかるような気がしてくるのです。

 自由に文章が書けた時代ではなく、「俳句という形式――象徴的暗号」であっても、細心の言葉遣いがされていたと思います。ですから、そこには二重、三重の意味が込められていたと思いますが、それでも、俳句という形式を用いれば、より率直に正直に自分の心情を吐露できたということだと思います。

 このように考えると、村上春樹が好きだという父の俳句「鹿寄せて唄ひてヒトラユーゲント」(1940年10月)「一茶忌やかなしき句をばひろひ読む」(1940年11月)も、村上春樹の句への鑑賞が、そこに込められた父親の思いを、まさに象徴的暗号を解読するように、二重性の広がり、深まりの中で読んでいることもよく伝わってくるのです。

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 父の俳句の師である鈴鹿野風呂は高浜虚子に師事して、野風呂が主宰となったあとの「京鹿子」は「ホトトギス」系の俳人たちの拠点となったようですから、無季俳句容認の俳人たちとは異なって、弾圧の対象からは逃れられていたかもしれません。

 村上春樹が引用する野風呂の「俳諧日誌」の1941年9月30日の項の

 <戻りには、又降る雨にぬかるみを踏む(中略)。戻れば千秋軍事公用とのこと。

 をのこわれ二たび御盾に国の秋 千秋>

 を、前に紹介しましたが、でも、この時、村上春樹の父・千秋が野風呂のもとに報告に来たということでしょうか。千秋からの文による召集の事実が届いていたということでしょうか。私(小山)には、この句にも、多くのことを述べず、「俳句」の中だけに、思いは凝縮されているようにも感じられてきます。それを記す野風呂の日誌の筆に、それ以外のことは記すまいという思いのようものも感じてしまいます。

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 でも、その村上春樹の父親には、京都大学入学後の昭和20年6月12日、また召集が来ます。今度は国内勤務の部隊だったようですが、その二カ月後の8月15日に終戦となり、10月28日に正式に兵役を解かれて、再び大学に戻ったそうです。その時には、村上春樹の父親は27歳になっていました。なんと、3度の兵役を務め、戦争の中を生き延びたのです。

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 村上春樹の父親は勤務先の学校で、生徒たちを集めて、俳句の同好会のようなものを主宰し、俳句に興味を持つ生徒たちを指導し、句会も開いていたことも『猫を棄てる 父親について語るとき』の中に書かれています。

 村上春樹が、まだ小学生の時、何度かそういうところに連れて行かれたことがあるそうで、「一度ハイキングがてら、滋賀の石山寺(いしやまでら)の山内にある、芭蕉がしばらく滞在していたと言われる山中の古い庵を借りて、句会を催したことがあった。どうしてかはわからないが、その昼下がりの情景を今でもくっきりとよく覚えている」と記しています。

 この日のことは、村上春樹がデビューしてまもなく、雑誌「太陽」の1981年10月号の『方丈記』特集に寄せた「八月の庵 僕の『方丈記』体験」という文章に詳しく記されています。

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 その「八月の庵 僕の『方丈記』体験」によると、10歳の頃のようですが、句会が開かれている間、少年の村上春樹は一人で縁側に座り、薮蚊を叩きながらぼんやりと外の景色を眺めていたようです。そして「人の死について思った」そうです。とても印象に残る場面です。

 ちょっと長いですが、その後の村上春樹にとって、とても重要な内容ですので、そのまま引用してみます。

 「もちろん子供のことだから、それほど明確に概念としての死を捉えていたわけではない。ただそのような隔絶された場所に連れてこられたのははじめてだったので、そこにかつて隔絶されて存在した生というものを強く意識することになったのである。昔々ここにひとつの生が存在し、その生を断ち切った死が存在した。しかしその死は瞬間的なものではなく、生が終息した後もひとつの状況として小さな影のように、あるいはまるで手にしみこんだ粘土の匂いのように、そこに存続しているように思えた」

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 これは、短編「螢」や長編『ノルウェイの森』(1987年)で書かれる「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」という言葉と同じ認識ですね。

 村上春樹が、デビュー以来、この『猫を棄てる 父親について語るとき』まで、同じ思いを抱いて書き続けてきたことをよく示していると思います。

 村上春樹が個人的に好きだという「鹿寄せて唄ひてヒトラユーゲント」の句も、目の前で唄うヒットラー・ユーゲントの青年たちの「生」と、いっときの日本訪問を楽しんでいたヒットラー・ユーゲントの青年たちが、その後、厳冬の東部戦線で果てていったのかもしれない「死」が同時に存在していることが、村上春樹の句の鑑賞を通して伝わってくるのです。

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 タイトルにあるように、父親の戦争体験がメインの『猫を棄てる 父親について語るとき』ですが、村上春樹の母親のことも少し書かれています。母親には結婚を念頭に置いている相手(音楽教師だった)がいたそうです。でもその相手は戦争で亡くなったということです。そして母親の父が持っていた大阪・船場の店は米軍の空襲でそっくり焼けてしまい、村上春樹の母親は米軍のグラマン艦載機から機銃掃射を受けて、大阪の街を逃げ回ったそうです。

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 この本の「あとがき」は「小さな歴史のかけら」と題されています。

 村上春樹は、歴史と戦争のことにこだわって書き続けてきた作家です。<現在は過去から直接来ていること、現在は過去と繋がっている>という認識を抱いて書き続けてきた小説家だと思います。

 この本の中で、書きたかったことのひとつは、戦争というものが一人の人間の生き方や精神をどれほど大きく深く変えてしまうかということであったそうです。そして、父親の運命がほんの僅かでも違う経路を辿っていたなら、村上春樹という人間がそもそも存在していなかったことを通して、「歴史は過去のものではない」ことを、小説ではない形でしっかり書いています。

 村上春樹の作品を語る際に、とても大切な一冊ですし、村上春樹の作品を読んだことがなくても、深く、訴えてくるものがあると思います。一冊の本としては、原稿の分量的には短いものですが、村上春樹にとっては、大長編に相当する仕事でもあったと思います。デビュー以来、書かなくてはならないと思っていたことを、ようやく書くことができたのですから。

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 このコラムは、私(小山)の個人的なことを記す場ではありませんが、少しだけ記すのを許してください。私は群馬県伊勢崎市という土地に、村上春樹と同年に生まれました。父親の仕事は伊勢崎銘仙(めいせん)の織物業でした。戦後、日本人が着物を普段着として着なくなると、事業は倒産。そして父は私が6歳の時に病に倒れ、私が10歳の時には亡くなってしまったので、村上春樹のような父との思い出は、ほとんどありません。異母兄姉は多いのですが、母親とは母1人、子1人の母子家庭でした。

 そして、この本を読むうちに、私の母も戦争で、思い描いていた相手を失ったらしいことを思いだしました。私も戦争の影響を受けて、自分が在ることに気がついたのです。そんな力に満ちた作品です。

 なお「京大俳句」と戦前戦中の俳句界の動きについては田島和生著『新興俳人の群像』などに学びました。(共同通信編集委員 小山鉄郎)