「サッカーコラム」1年に1度だけ出会える「本物」 トヨタ・カップが日本にもたらした功績

フラメンゴが世界一に輝いた1981年のトヨタ・カップで、シュートを放つジーコ=81年12月、国立競技場

 競技が文化として人々に根付く。そのようになった幸福なスポーツのファンや選手は、良い意味で他国や他競技を気にする必要がなくなる。野球―米国の大リーグも日本のプロ野球も含め―はその好例だろう。

 世界的な大会がなければ、競技はその国それぞれに発展することになる。野球が五輪の正式競技に採用されたのは1992年のバルセロナ大会。それ以降、北京までの5大会連続で実施された。しかし、「世界一」を決めると言えるほど権威あるタイトルにはなれなかった。なぜか? 大リーグのチャンピオンを決める戦いを「ワールドシリーズ」と呼ぶことに良く現れている。大リーグを制覇した者がそのシーズンの「世界一」となる。それ以外に「世界一」が必要ないことは明白だ。

 本場のメジャーリーグと十分に渡り合えるレベルのリーグを持っている。そんなプロ野球を、Jリーグ開幕前のサッカー関係者は「うらやましい」と感じていたはずだ。プロ野球には世界大会はないが、実力が劣っていた当時の日本サッカーには「別の意味で」世界大会がなかったからだ。五輪は大きな夢で、ワールドカップ(W杯)は出場を夢見ることさえ許されない別の次元で行われている大会―。それが昭和の時代にサッカーに携わっていた人たちの偽ざる気持ちだった。

 自国にレベルの高いリーグが存在しない。そのことは逆に、優れたものならどの国であっても学ぶという意識を生んだのだろう。特に、68年メキシコ五輪で銅メダルを獲得した重鎮たちは度重なる遠征を経て海外の影響を強く受けてきた。今振り返ってみると、他種目に比べても良いものを取り入れることに積極的だった感じがする。

 とはいうものの、Jリーグ開幕以前はサッカーの情報が少なすぎた。インターネットもなければ、テレビも長らく地上波だけ。NHKのBS(衛星放送)が本放送を開始したのは年号が平成に変わった89年だった。映像で海外のサッカーに接することができるのは、地上波で民放が放送する週一度の30分番組だけ。それも、放送地区は関東地方など一部地域にとどまった。

 そんな日本のサッカー界に常に刺激を与え続けたのがトヨタ・カップだ。前身は60年に始まったインターコンチネンタル・カップだ。欧州チャンピオンズカップ=92―93シーズンから欧州チャンピオンズリーグ(CL)へ移行=の王者と南米サッカーのクラブが争うリベルタドーレス杯の覇者が、日本でクラブナンバーワンの座を懸けて戦う。計25回も行われた欧州と南米のクラブが激突する一発勝負は、多くの人々の目を海外に向けさせた。サッカーファンに本場志向の人が多いのは、トヨタ・カップに影響されたこともあるだろう。

 インターコンチネンタル・カップは60年にホーム・アンド・アウェーの対戦方式で始まった。しかし、激突する両大陸のプライドはラフプレーを呼んだ。特に南米での試合は荒れに荒れた。次第に欧州側は対戦することを拒否するようになり、75年と78年には開催自体が中止となった。大会の存続のために考えられたのが中立国である日本で行う一発勝負だった。

 クラブ世界一を欧州と南米のクラブだけで争う。これに異論を挟む者はいなかった。そして、欧州のクラブも現在のような世界選抜のようなチーム編成ではなく、自国の選手に3人程度の助っ人を加えたチームだった。南米王者も現在のように若手を欧州のクラブに青田刈りされることがなかったので、全く見劣りしない本当に強いチームが来た。

 大会の序盤は圧倒的に南米勢が優勢だった。84年の第5回大会(81年には2月に第1回、12月に第2回を行う変則開催だった)まで南米勢が連勝した。南米勢は意気込みが違ったからだ。活躍して欧州のビッグクラブへ移籍する野望を持っていた選手も多かった。南米のクラブは調整のために1週間前に来日するのに対し、欧州勢はリーグの関係もあり直前の来日が多かった。

 中でも強烈だったのは81年12月の第2回大会で来日したフラメンゴ(ブラジル)。このチームにはジーコにレアンドロ、ジュニオールのブラジル代表が名を連ねていた。優勝こそできなかったが、その美しいプレースタイルと強さから今も語り継がれている82年W杯スペイン大会代表でレギュラーを張った名選手だ。他のメンバーもほぼセレソン(ブラジル代表)という強力チームは、リバプールを3―0で完膚なきまでに打ちのめした。この時、日本に好印象を抱いたことが91年のジーコ来日に影響を与えた。筆者はそう思っている。

 南米優位で推移したトヨタ・カップ。欧州が初めて勝利を収めたのは85年の第6回大会のユベントス(イタリア)だった。メンバーはほぼイタリア代表。そこに将軍・プラティニ(フランス)とミカエル・ラウドルップ(デンマーク)という名手を加えたチームは、アルヘンチノス・ジュニアーズ(アルゼンチン)との美しい点の取り合いを演じた。結果的に2―2からのPK戦をユベントスが制したのだが、初めて点の取り合いとなったこの試合は、フェアで美しい試合として記憶される。

 思えばすごい選手が日本の地で、タイトルを懸けた真剣勝負の姿を見せてくれた。ジーコにプラティニ、ロマーリオ(ブラジル)に始まり、89年から2年連続で出場したACミラン(イタリア)にはフリット、ファンバステン、ライカールトの「オランダトリオ」、91年のレッドスター(ユーゴスラビア=当時=)にも同国代表の中心選手のサビチェビッチとミハイロビッチがいた。いずれもサッカー史に一時代を築いた名選手だ。監督としては92年のバルセロナ(スペイン)でクライフ(オランダ)も来日している。通算成績は欧州13勝、南米12勝とほぼ互角だ。

 2005年にFIFAクラブW杯に移行したトヨタカップ。その功績は計り知れなく大きかった。年に一日だけではあるが、日本のファンが「本物」に触れて「世界」を感じられた。この機会が与えられていなければ、世界をイメージできなかった。そして、日本がW杯初出場に至る道のりはもう少し遠くなっていたかもしれない。

岩崎龍一(いわさき・りゅういち)のプロフィル サッカージャーナリスト。1960年青森県八戸市生まれ。明治大学卒。サッカー専門誌記者を経てフリーに。新聞、雑誌等で原稿を執筆。ワールドカップの現地取材はブラジル大会で7大会目。

© 一般社団法人共同通信社