山口百恵の引退と松田聖子の進化、昭和歌謡から J-POP 黎明期へ 1981年 10月7日 松田聖子のシングル「風立ちぬ」がリリースされた日

昭和歌謡の終焉と80年代に訪れる変化の兆し

“昭和歌謡” という言葉が広まって久しい。それは総じて1970年代から80年代まで、つまり昭和から平成に変わるまでの邦楽ヒット曲を指すのだと思うが、僕がこのネーミングについて常々思うのは、昭和歌謡とは、昭和が最も昭和らしかった時代のヒット曲ではないのかなぁということ。いうなれば “歌は世につれ、世は歌につれ” という言葉がピッタリくる70年代までではないか… と思ったりもする。

たとえば、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」であったり、小坂明子の「あなた」であったり、ちあきなおみの「喝采」であったり、沢田研二の「勝手にしやがれ」であったり… これらの曲に潜む哀愁は世相となり、楽曲が古いアルバムに貼られたモノクロ写真のように悲喜こもごもの人生の1ページを描き出していた。そこにはやはり作詞家の力も大きく、とくに阿久悠の紡ぐ約3分間のドラマは、日本が高度経済成長期を経て、すべての人が明日は今日よりもきっとよくなると信じて疑わなかった時代の賜物であったとも思う。

良くも悪くも豊かさが当たり前のものとなった80年代に入ると、歌謡曲にも変化の兆しが表れる。仮に昭和がもっとも昭和らしかった時代が70年代で終わるとするならば、僕が思う真の意味での昭和歌謡の終焉はこの1979年の大ヒット曲、クリスタルキングの「大都会」だったり、翌1980年のもんた&ブラザーズの「ダンシング・オールナイト」だったりする。そこには、路地裏のスナックなどがよく似合う哀愁と人々の豊かさへの渇望が垣間見られた。

シティポップの台頭、1981年オリコン年間1位は「ルビーの指環」

しかし、80年代に入ると、お茶の間のブラウン管から流れる流行歌にも変化の兆しが見えてきた。それはニューミュージック母体にしたシティポップの台頭だ。人々は豊かさに慣れてくると音楽にも洒脱さを求めるようになってきた。つまり、歌に希求するものが3分間の物語から、生活の彩りを豊かにする空気感に代わってくる。

これを象徴しているのが81年の年間オリコン・チャート第1位がシティポップ珠玉の名曲、寺尾聰「ルビーの指環」だ。この曲に関して言えば、楽曲の洒脱さと相俟った作詞家、松本隆の描く70年代から引き継がれた物語性もヒットの要因だとも思う。また、同81年3月21日には大瀧詠一の「君は天然色」がリリースされている。80年の年間オリコンチャート第1位は「ダンシング・オールナイト」であったから、この1年間の変わりようは極めて興味深い。

シティポップ系ミュージシャンの粋を集めた傑作「ルビーの指環」、YMO がお茶の間に認知されるようになったのは、ここから一足早く80年代の幕開けだ。ちなみに「テクノポリス」のリリースが79年10月25日、「ライディーン」は80年の6月21日である。大瀧詠一の最高傑作アルバム『A LONG VACATION』は81年3月21日に「君は天然色」と同時発売されている。

そう、70年代初めの日本語ロック論争を経て、それそれのポップセンスを研ぎ澄ませながら足場を築き上げたミュージシャンたちが、お茶の間に向けて洗練された音楽を放つ時代になったのだ。

山口百恵の引退、松田聖子の進化、そして J-POP 黎明期へ

この変化は、ふたつの時代でそれぞれの頂点を極めたアイドルを対比してみると明確になる。それは山口百恵と松田聖子だ。

山口百恵は、作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童というゴールデンコンビとタッグを組み、数々のシングルをリリースすることで、少女から大人の女性への内面的な成長が歌を通じて大衆へとアピールしてきた。それは、歌詞に描かれる山口百恵が見たとされる風景のワンシーンが人々の心の瞼に焼き付いていったということだ。

これに対し、松田聖子はデビュー2年目にして松本隆を作詞家に迎え、81年10月7日に発売された7枚目のシングル大瀧詠一作曲の「風立ちぬ」、続く呉田軽穂(松任谷由実)作曲の「赤いスイートピー」の流れで瞬時にしてアイドルから脱却。類まれな歌唱力で女性ファンをも魅了するシンガーとして転身した。

つまり、山口百恵が昭和歌謡という世界の中で心の中の情景を歌い上げたのに対し、松田聖子はポップミュージックの礎を築いたアーティーストたちとコラボレートすることで昭和歌謡から脱却し、新しい道を拓いていったのではないか… と思うのだ。だとすると、山口百恵の引退、そして松田聖子の進化は、昭和歌謡からJ-POP黎明期へ移行するエポックメイキングな事象だと解釈することはできないだろうか。

歌謡曲の多様性、シャネルズ、ヴィーナス、横浜銀蝿…

歌謡曲は時代の変革を通じて洗練され、多様性を帯びるようになってきた。そこには80年代初頭に放たれた全く新しい価値観がもうひとつあった。それは、T.C.R.横浜銀蝿R.S. やシャネルズ、ザ・ヴィーナスだ。彼らのブレイクにより、50年代~60年代のアメリカンカルチャー、ロックンロールの黎明期を基盤とする、明快かつ躍動感のある楽曲がメインストリームに躍り出てきた。このような、なつかしさを超えたキャッチーでドリーミーな世界観もまた、歌謡曲の新しい顔になった。

とくに、自らの楽曲「おまえにピタッ!」が、83年秋のカネボウ化粧品のCMソングに抜擢されたり、岩井小百合や三原順子、西城秀樹に楽曲を提供した横浜銀蝿の役割が非常に大きかったと思う。このような感性が演歌やコーラスグループといった、古き良き昭和の感性と同居するヒットチャートは80年代半ばごろまで続いた。

吸収を続ける歌謡曲、昭和歌謡から J-POP へ

このように、70年代からの技巧派ミュージシャンの粋を集めた洒脱さと、懐かしさを超えた “Oldies But Goodies” な感覚が最先端のモードを体現したCMにも積極的に採用されることになり、お茶の間に浸透してゆく。

その後も、かつて歌謡曲と呼ばれたマーケットは様々な音楽を吸収。80年代半ばになると、同時期にヒットしていた洋楽のエッセンスをも吸収し、石川秀美の「もっと接近しましょ」(元ネタはシーラ・E「グラマラス・ライフ」とされる)や、シブがき隊の「ZOKKON命」(元ネタはナイト・レンジャー「炎の彼方(Don't Tell Me You Love Me)」とされる)などのキャッチーな名曲も生まれた。

こうして物語性に重きを置いた歌が独り歩きをし、聴く者ひとりひとりの中にそれぞれの心象風景を描いた昭和歌謡は、80年代以降、様々な音楽を吸収。のちにアイドル云々というカテゴライズで語られることのない J-POP と呼ばれるジャンルへ変貌してゆく。やはり、昭和歌謡というのは80年代に入った時点で終わったのかなぁと思う。

カタリベ: 本田隆

© Reminder LLC