新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、プロ野球の開幕が先延ばしになっている。
当初は3月20日に開幕予定だったが、とてもスポーツを行える環境になく、4月24日が第2案として設けられたものの、これも駄目だった。
ついには5月下旬から6月中旬にかけて行われる予定だったセパ交流戦の中止を決定した。これにより、5月中の開幕は事実上、断念せざるを得ない状況に追い込まれた。
当初の開幕スケジュールから交流戦終了予定だった6月14日までに組まれていた日程を調べると、多くのチームではペナントレース55試合に交流戦18試合を併せて73試合が消化される予定になっていた。
公式戦の全日程(ポストシーズンを除く)が143試合だから、半数以上を終えていたことになる。
現時点で各球団は自主練習を行っているケースが多い。1勤1休や2勤1休などの形で練習時間に時差を設けたり、1グループを4、5人の少人数にするなど「密閉・密集・密接」の、いわゆる「3密」を避ける対策がとられている。
いずれにせよ、実戦形式からは久しく離れているため、再度の本格調整と練習試合などを消化した後の開幕となる。新型コロナウイルス感染の状況次第だが、最短でも6月中旬以降にずれ込むのは避けられない見通しである。
戦時を除いては、過去にも経験のない異常なシーズンを日本野球機構(NPB)や各球団はどう乗り切っていくのか、頭を悩ませている。
かつて、パ・リーグが採用したような前後期制の半期を切り取った短期決戦にするのか。はたまた、少しでも収益改善を図るためには超過密日程を承知の上で、試合数の減少を食い止める方策を講じるのか。
そんな中で窮余の策として話題に上っているのが「ダブルヘッダー」の復活である。野球評論家の張本勲氏は「限られた期間の中で、試合数をこなすのであればこれしかない」と語るように、1日に2試合を行うダブルヘッダーは過去には当然のように行われていた。
戦前の1942年(職業野球の時代)には4球団が集まり、1日で3ゲームを行った記録もある。
ダブルヘッダーが姿を消したのは1999年から。選手側の発言力が増していくとともに「過重労働」にノーの声が高まっていったからだ。だが、ダブルヘッダーの時代には、それなりのドラマもあった。
個人的に、球史に残るダブルヘッダーの思い出が二つある。
一つ目は1974年10月14日、後楽園球場での長嶋茂雄の引退試合だ。
2日前に現役引退を表明していた“ミスタープロ野球”は、中日戦の第1試合に通算444本目の本塁打を打つと、第2試合を前に場内一周を始める。
直前までの打ち合わせで球場側は混乱を危惧して反対していたが、長嶋のたっての希望で実現したとされる。蛇足ながら、まだ記者になる前で学生だった筆者も喫茶店のテレビ画面に映る光景に涙した。
「我が巨人軍は永久に不滅です」の名言とともに、引退セレモニーが行われたのは第2試合終了後のことだった。
もう一つの忘れられない思い出は「伝説の10.19」として語り継がれる1988年の川崎球場で行われたロッテ―近鉄。このダブルヘッダーを連勝すれば近鉄が優勝という大一番に、日頃は閑古鳥が鳴く川崎球場が猛牛ファンで満員になった。
第1試合は3―3の同点で終盤を迎える。規定により第1試合は9回終了時に同点なら引き分けだったが、奇跡が起こる。
九回二死からこのシーズン限りで引退を決めていた梨田昌孝(後に近鉄、日本ハム、楽天監督)の代打決勝タイムリーで望みをつなげる。
続く第2試合も息詰まる接戦となった。この試合には4時間を超えて新しいイニングに入らない規定があったが、近鉄1点リードの8回にエースの阿波野秀幸が高沢秀昭に同点アーチを喫してからもつれる。
さらに9回には塁上のクロスプレーを巡ってロッテの有藤通世監督が9分間にわたる猛抗議を行ったため、延長10回、近鉄の攻撃に入った時点で4時間まであと3分。この回が無得点に終わった時点で優勝は西武に決まった。遊軍記者として現場取材を続けたが、近鉄ナインにはかける言葉も見つからなかった。
さまざまなドラマを生んだダブルヘッダーがもし復活すれば、ベンチ入りの選手枠問題や労働問題など機構側と選手会で話し合うべき問題はたくさんある。
しかし、野球界全体にとっても危急の時だから、可能性を探ってもいいのではないか。ただし、経験者だから付け足しておく。ダブルヘッダーは2試合にブレークタイムもあるので約7、8時間がかりになる。相当に野球好きでないと途中で席を立つことになる。
荒川 和夫(あらかわ・かずお)プロフィル
スポーツニッポン新聞社入社以来、巨人、西武、ロッテ、横浜大洋(現DeNA)などの担当を歴任。編集局長、執行役員などを経て、現在はスポーツジャーナリストとして活躍中。