アーセナルで長く指揮を執っていたアーセン・ヴェンゲル監督。その強みは選手の発掘であり、優秀な才能を他に先んじて獲得するという手法にあった。
その反面失敗も多かったものの、様々な選手がヴェンゲルの下で成長して世界へと羽ばたいていった。
そんなアーセン・ヴェンゲル氏が「獲得寸前だった」と言われるベストイレブンを『Squawka』の記事を元に紹介していこう。
GK:ジャンルイージ・ブッフォン
「私は1998年、20歳のときにアーセン・ヴェンゲルと一度夕食をともにしたことを覚えている」とブッフォンは話している。
パルマで若くしてデビューを果たし、10代の天才として名を馳せていた。ヴェンゲル監督は衰えを見せ始めていたデイヴィッド・シーマンの後釜に…と考えていたそうだが、2001年に彼はユヴェントスへの移籍を決断している。
DF:ラファエル・ヴァラン
RCランスでジョフレイ・コンドグビアと共に若くしてデビューを果たし、突如レアル・マドリーへと引き抜かれたヴァラン。今や不可欠な存在となっている。
ヴェンゲル監督は2013年に「彼はあの時ランスにいた。我々は彼を獲得することができたかもしれなかった。なぜ彼がアーセナルでプレーしていないのかを自問する必要がある」と語っている。
DF:ジェラール・ピケ
「私はセスク・ファブレガス、リオネル・メッシ、ジェラール・ピケを選んだ。ただ、結局はセスクのみが獲得できた」とヴェンゲル監督は後に話した。
バルセロナの下部組織でプレーしていたピケは、アーセナルには行かずにマンチェスター・ユナイテッドを選び、プレミアで失敗した後復帰。スペインで世界最高クラスのCBに成長した。
CB:ヴァンサン・コンパニ
コンパニの代理人であるジャック・リヒテンシュタインは「レアル・マドリーでエミリオ・ブトラゲーニョと、バルセロナで会長と、アーセナルでアーセン・ヴェンゲル監督と面会した」と明かしている。
10代で大きな活躍を見せたベルギーのセンターバックはアーセナルにも売り込まれていた。しかしその時はハンブルガーSVへと移籍することになった。
MF:ギャレス・ベイル
サウサンプトンからトッテナムへ行き、それからレアル・マドリーに移ったベイル。当初はサイドバックだったが、ウイングにコンバートされて世界的な選手に成長した。
アーセン・ヴェンゲル監督は「アシュリー・コールとガエル・クリシがいたので、最終的に彼は獲得しなかった。それは大きな間違いだったと告白しなければならない…」と後に明かした。
MF:ヤヤ・トゥレ
この物語は非常によく知られている。兄のコロ・トゥレはアーセナルで長くプレーした選手であり、ヤヤも2003年にアーセナルで練習参加。バーネットとの親善試合では赤白のユニフォームを着てプレーした。
しかし労働許可証の問題で獲得はできず、彼はウクライナへ。後にマンチェスター・シティに加入し、アーセナルのライバルになった。
ヴェンゲル監督は「ヤヤ・トゥレは我々と合意していたことを忘れないでほしい。彼がウクライナに行ったのは、我々が彼と契約したくなかったからではないんだ」と話す。
MF:ポール・ポグバ
マンチェスター・ユナイテッドでなかなか出番を得られなかった若きポグバに対し、アーセン・ヴェンゲル監督はアーセナルへの加入を勧めたそう。
「我々はポグバをここに連れてきてもらったのだ。しかし彼はすぐにユヴェントスと契約してしまった」とヴェンゲル監督は後に明かす。
MF:ジェイドン・サンチョ
「ジェイドン・サンチョが試合に出場していなかったとき、私は彼をマンチェスター・シティから連れ出したかった。彼はロンドンの出身だから誘おうとした。アーセナルに連れて行こうとしたよ」
とアーセン・ヴェンゲル監督は語っている。マンチェスター・シティの下部組織で際立っていたサンチョ、もしアーセナルに来ていたらどうだったか。
FW:リオネル・メッシ
バルセロナの下部組織で徐々にスターへの道を歩んでいたメッシ。セスクを獲得したヴェンゲル監督はメッシにも目をつけていたというが…。
「結局のところ、彼はあまり動きたくなかったのだと思っている。メッシはバルセロナで快適であった。その事実が獲得できなかった原因だ」とヴェンゲルは明かしている。
FW:クリスティアーノ・ロナウド
2000年代前半、スポルティング・リスボンに所属していたロナウドはアーセナルへの加入に近づいていた。
「彼は母とともにここにいて、我々はとても親密だった。しかしそれからマンチェスター・ユナイテッドが来た。ポルトガル人のカルロス・ケイロスがコーチを務めていた。
スポルティング・リスボンとロナウドに対しての印象はマンチェスター・ユナイテッドが際立っており、彼らが契約を結んだ」とアーセン・ヴェンゲルは後に語っている。
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FW:ズラタン・イブラヒモヴィッチ
アーセナルに練習参加を打診されていたことで有名なイブラヒモヴィッチ。2000年に9番のユニフォームを手渡されるところまで話は進んでいたが、結局破談に。後にイブラは「ズラタンはオーディションを受けない」という名言も残している。