麥田俊一の偏愛的モード私観 第15話「アキコアオキ」

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「アキコアオキ」2020-21年秋冬コレクション PHOTO: photomaker

 いつの時代にも云えることだが、世の懐深くには無抵抗の相手に対して残酷になれる芽が潜んでいる。芽は思い出したように醜く繁茂して、世相に暗い影を落とす。救いとなるのは人類の叡智なのか。それとも精神主義なのか。それとも倫理の道なのか。正直、私には判らなくなっている。うっかり物云うのは時節が時節だけに、ちとばかり剣呑だから口を慎んでおくのだけれど。

 前回に続き人の内に潜在する「毒虫」の話。ぱっと見の、良家の子女の如き穏やかな笑顔からは想像しようもない臍曲がり気質を内に秘めた青木明子が此度の主役である。憚ることなく「毒」と決め付けてみたいのだけれど、そうとばかり云い切れないのは、そこにいじらしさが滲んでいるからで、然もその気質たるや、頑是ない子供の我が儘とも、満面のドヤ顔に貼り付くこまっしゃくれた感じとも違うからである。偏屈の程度を測る試験でもあれば、その偏差値の高さは、私も舌を巻くほどで、私みたく世を拗ねた捻くれ者とは、端よりツイストの質が違う。捻くれ具合に「品」を漂わせているのだから、こちとら到底歯が立たぬ、と云うわけ。加えて、「なかなか喰えぬ女だわい」と、彼女の強かさを頼もしく思ったのも、それ故である(そのあたりの事情は後述する)。

 本来「品」は、「ここを直せば出てくる」と云うように容易く手に入るものではない。故に、育ちや環境の中で自然に身に付いたものと勝手に推断することも吝かではないのだが、実際、青木の生い立ちを知らないわけだから、そうまでして買い被るのも如何なものか。但し、デビュー当初より彼女の服作りを見続けていれば、自ら緊張を強いることで「品」は養われるものなのだなとか、些細なことを思いのほか叮嚀に扱うことで品性は磨かれるものなのだなと云うことに些かの合点はいくのである。とは云え、一端のデザイナーなら誰しも懐に持している「足りるを知らぬ貪欲さ」は人一倍だから、服を作る者としてのグツグツ煮えかえるほどの内的沸騰が「気品」を損なうこと、屡々あるにはあった。況してや只の「お上品」とか「お嬢さま」とかではないことは上述の如し。そもそも彼女の服の真骨頂はヘタウマ的な面白さではない。ややともするとキレイごとに甘んじてしまったことも確かにあったが、自分流儀を定めることに躍起になる姿が感ぜられるから救われてきた。時折私はこんな妄想に耽るのだ。自分に足りないものをもっと欲しい、もっともっと、も〜っと欲しいと慾張る「餓鬼」の姿に青木自身を重ねてしまう。はにかむ笑顔に、それとは裏腹の、餓鬼道の苛烈な業(ごう)を垣間見たりするのだ。私の空想癖もここまで来れば立派な宿痾であろうか。

 青木明子は1986年東京都生まれ。2007年に女子美術大学ファッション造形学科卒を業後、英国のセントラル・セントマーチンズ美術大学にてファッションを学ぶ。帰国後「ミキオサカベ」にてアシスタントを経験。2014年に「アキコアオキ」(女性服)のレーベルで「東京ニューエイジ」に参加。インスタレーョン形式にて初めて自作(2015年春夏)を発表する。因みに「東京ニューエイジ」とは、デザイナーの坂部三樹郎と山縣良和がプロデュースしたズブの新人を集めたプラットホーム。今となっては見る影もないが、当時は画期的なプロジェクトだった。青木はその第一期に名を連ねている。2016年春夏シーズンに初めてショーをする。2018年にはモエ・エネシー・ルイ・ヴィトン(LVMH)主催による若手デザイナー支援プロジェクト「LVMHプライズ」のセミファイナリストに選出され、同年、第36回毎日ファッション大賞にて新人賞・資生堂奨励賞を受賞。今更お前が書かぬとも充分注目されているデザイナーだからと、外野の声が聞こえて来そうだが、不埒にも「なかなか喰えぬ女だわい」と見得を切った手前、申し開きをせずにはそれこそ沽券に関わるから書かせて貰おうか。

 来歴ついでに云えば、幼稚園より高等部までの厳格なカトリック式一貫教育が青木の創作の初期衝動に大きく影響を及ぼすことになる。調和と破戒の象徴としての「学生服」、そこより派生した「制服」全般に向けられる彼女のアンビバレントな愛情は、くだんの徹底した情操教育の下でぬくぬくと、それも着実に育まれて行ったのだから皮肉なものだ。制服はプロテクトとしての殻であり、旧弊を打ち破る折に木っ端微塵に粉砕される殻でもあり、こうした「殻」の概念は青木が作る服の形に見事に投影されている。時にそれは、力強い線を削り出した彫刻的なカタチを得て実際の形に具現され、また、不確かで曖昧なファッションの輪郭を自分の形に置き換えようとする抽象表現の動機付けにもなって来た。「自分は曖昧なものを曖昧なオブジェクトで表現出来ない質(たち)だと思う」と青木は語る。デビュー以降の数回は、雑然とした粗さが玉に瑕だったが、描写の稚拙なりに却ってそこに或る種の勢い猛が感ぜられた。それは、まだ作品として結実するには至らないが、密かに経験の蜜を貯えていた時期でもあった。

 2020~21年秋冬シーズン向けのプレゼンテーションが2月10日に発表されたが、これが実験的で含蓄に富んでいた。曖昧さを意識的に炙り出そうとした今回は、仮想の民族衣裳、即ち制服(「単一」の意の「ユニ」と「形態」の意の「フォーム」)を題材とした前回の、或る意味では発展継承型、また或る意味ではその裏返しのように見える。何故ならば、現代社会に於ける仮構の民族(一種の理想郷思想)と云うマクロ的視点から、(理想郷の構成メンバーとも云える)男女の個性や人格に纏わるミクロ的視点へと創作のプロットを展開しているのだから。今回初めて男モデルを起用している。男のための服を引用したのは、決してこの作品の単なる装飾、一つのアクセサリーなのではなく、作品の意図した詩的情緒の目的地点(ファッションの曖昧さに対する青木なりの回答)を目指したのであって、只男の服をデビューさせたと云うことではない。またそれは、作者の私的感情より一つの普遍的感情への高まりへと、我々を誘う契機になるように計算されている。然らば、風変わりな演出にも頷けると云うものだ。会場は時間の流れを感じさせない観念的な空間。新作を纏ったモデルは、その観念的な広がりを構成する一つのオブジェクトの役割を担っている。それはまるで、一枚の絵画のようである。屡々絵は二枚、三枚と重ねられ空間を満たして行き、それらの展開の内に一篇の結構が成立する、と云う具合に、全22ルックを延々3時間掛けて見せている。「(プロだけではなく一般の人を含め)出来るだけ多くの方に見て貰いたかった」と青木は語っている。

「音」が演出上の肝だったことは、彼女に教えて貰うまで分からなかった。例えば、休日の街の雑踏、部屋で本を読む時の紙が擦れる音、仕事でパソコンのキーボードを打つ音、風に揉まれる木々の騒めき…日々の暮らしでは気にもとめない何気ない音を背景に、特段代わり映えのしないありふれた男女の様子を見せておいて、そこに、メトロノームの単調な律動と砂嵐の音を一定の間隔を置いて挿入することで、いつも通りに経過して行く時の流れに楔を刺し、日常に一瞬の真空地帯を割り込ませておいて、現実を抽象的な時空に変えようとした。この瞬間こそ、まさに彼女が云うところのコアタイムである。「(3時間の間に番度設けられた)コアタイムの間は、男と女の相違や本質をそれとなく匂わせる台詞の繰り返しをBGMに使うことで群像劇のような印象を与えたかった。今回は個性や人格の幅を広げ、乱し、散らすことに服作りの主眼を置いている。そこには男女二つの性があるだけではなく、男女を超えた新たなパーソナリティーが介在する。だから演出でも男女の輪郭が溶解し、混じり合って一つの生命体に変容するイメージを表現したかった」と青木は語る。

 以前も、女の服、それも男が作る女の服に私は一等興味があり、男が作る男の服にはあまり食指が動かない質であると書いた。その伝で云えば、女が作る女の服も同様なのだが、青木が作る女の服は、ぶっつけに投げ出された感覚もなければ、生地のままの素顔を見せるわけでもないから私の屁理屈の埒外にある。何故埒外なのかは、以下に彼女の言葉を引いておくので、どうか私の思いを斟酌して欲しい。

「個人的な経験が起点となり性差についての考察は始まった。男性の中にしか感じることの出来ない女性性を見ることがある。それは女性である私には、絶対に手に入れることの出来ない『性』であり、でも何故それが『女性性』なのかは、そこに女の自分にもあるに違いない片鱗と気配を感じたからだと思う。それが女性性かどうかは、正直判らないけれど、仮にそれを女性性として主題の深掘りを進めて行った。その過程で、ふと俯瞰して見たら、男性と云うものは女性の対角線にいる存在としてだけではなく、また性の対象としてだけでもない、なんとも不思議な存在のように思えて来た。自分とは相容れない全く別のものであり、自己と異なるからこそ惹かれる対象であり、発想や思考回路が全く違う異質な存在であり、共感出来る相手であり、ひいては自分の一部にすら思えて来た。きっとその逆もある筈(男性から見て、女性に対してそう感じたことがあるのではないかしら)。こうした(曖昧だけれど、確かにそこに漂っている)感覚は世間で云う『中性的』とは何処か違うように思えて来た。だって、中性的と云うと、もっとフラットで(男女の境界を)自由に行き来するようなイメージだから。そもそも性差に関する私の個人的な見解は、飽く迄も男性は男性であり、女性は女性であることが前提で、そこは相容れない方が面白い筈。そう諒解しつつも、男女の狭間をゆるゆると姿を変え危うげに漂う痕跡に私はセクシー(ゾクっとする色気)を感じる。(エロチックな)そうした感覚は、私がファッションと向き合う上では大切なものの一つだから」。

 常識とか、生半可の世間智とか、大人ぶった分別臭さとか云ったものほど、エロチシズムの本質から遠いものはない。この真理を生得の感覚で嗅ぎ取っているあたりも「なかなか喰えぬ」の所以なのである。この感覚を知的な操作によって琢磨することが、きっと青木にとって次なる足掛かりになる筈だ。(麥田俊一、ファッションジャーナリスト)