「日本最大級の偽文書」か 郷土史の定説ひっくり返るかも…京都・山城の古文書

椿井文書を模写したとされる「笠置山之城元弘戦全図」。椿井文書が山城地域に波紋を広げている(京田辺市田辺・中央公民館)

 京都府山城地域の自治体史に数多く引用されてきた史料「椿井文書(つばいもんじょ)」を偽文書と指摘する新書が先頃出版され、地元の歴史関係者らに波紋を広げている。たった1人の男が質の高い偽文書を大量に作り出した手法などを明らかにしており、特に関わりの深い山城地域では定説が覆りかねないためだ。郷土史が再検証を迫られるだけでなく、「日本最大級の偽文書」の作者かもしれない男の人物像にも注目が集まる可能性がある。

 椿井文書は、山城国相楽郡椿井村(現木津川市)の有力農民、椿井政隆(1770~1837年)が制作した文書の総称。椿井は山城や近江、河内、大和などで、武家につながる家系だと示したい豪農や山の支配権争いなどに関わり、歴史的な正当性を与えるために多くの文書を創作したとされる。

 以前から椿井文書の信頼性を疑う研究者はいたが、積極的に否定する研究はされてこなかった。そんな中、2003年から椿井文書を研究してきた馬部隆弘・大阪大谷大准教授が先月、一般向けに「椿井文書―日本最大級の偽文書」(中公新書)を出版。椿井文書の作成過程や影響などをまとめた。

 馬部氏は椿井文書の特色として、大学などの専門家にも引用されてきた点を指摘する。椿井は文書を創作する際、家系図や連名帳(名簿)、近隣寺社の縁起、絵図なども大量に作成し、相互に関係付けるなどして信ぴょう性を高めた。別の場所で創作した文書との整合性も保たれ、「離れた所の別の文書とも内容が一致するので本物だと思われやすい」(馬部氏)という。

 椿井文書とされる史料の具体例として、興福寺(奈良市)の末寺を列挙した「興福寺官務牒疏(かんむちょうそ)」や「南山雲錦拾要(なんざんうんきんしゅうよう)」などを挙げる。いずれも山城地域では欠かせない史料とされ、京都府田辺町史(1968年)や木津町史(84年)、山城町史(87年)など近隣府県も含む多くの自治体史で同文書が引用されている。

 中でも、京田辺市は「椿井文書の濃度が濃い」とし、草内、飯岡の2カ所に咋岡(くいおか)神社がある経緯や、普賢寺地域の南山郷士が士族に認められた根拠にも椿井が影響していると、馬部氏は分析。「椿井文書にしか出てこない情報は、偽作である可能性が極めて高い」と主張する。

 山城地域の歴史関係者からは馬部氏の主張について「緻密に実証されており、反論は難しい」との声がある一方、椿井文書が長年重視されてきたこともあり、戸惑いも大きい。
 京田辺市の郷土史家の一人は「椿井文書には、別の史料や出土品から正しさが証明されている内容もあり、全部が間違っているとは言えない」と疑問を呈する。ただ、椿井文書の扱いを巡って歴史グループ内で論争もあったといい、「どこまで疑うのか、信じるのか。根の深い問題だ」と困惑を隠せない。

 馬部氏は一方で、椿井文書が人々の願う歴史に沿って作られたことから「当時の南山城の人たちの心の内側を分析する貴重な材料でもある」と評価する。

 また、椿井がわざと架空の年月を頻繁に書くなど完璧に偽装しようとしていない遊び心がある点にも着目。「お金には困っていなかったはず。ジグソーパズルに熱中するように、歴史の隙間を埋めることをただ楽しんでいたように見える」とし、「自分の説が受け入れられる喜びもあったのだろう」と、趣味が実益を兼ねた可能性が高いとみている。

 「いろんな所に冗談も入れ、お茶目でもある。現代人の受け止めを見たら、椿井さんは『こんなのにだまされるのか』と驚くかもしれない」と、馬部氏。常人離れした情熱で、大量に歴史を創作した椿井を「郷土の偉人と言えるのではないか」と話した。

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