1月だというのに窓から差し込む日差しが暖かい。澄んだ冬の光が、布団カバーのピンク色をより華やかに彩っていた。
「原田さん、歌がお上手って聞きましたよ」
ボランティアスタッフが椅子からわずかに身を乗り出し、ゆったりとした口調で語りかけた。
原田雪江(はらだゆきえ)さん(77)=仮名=がベッドの上で柔和な笑みを浮かべる。
「やぁねぇ、そんな冗談を言って」
じっと耳を傾けるスタッフ。その目に、見違えるほど明るくなった原田さんの表情が映る。日増しに元気を取り戻している。何よりの手応えは、自らの口で食事が取れるまで回復したことだ。
栃木県那須塩原市内の民間高齢者住宅。心地よい空気が、昼下がりの居室を満たしていく。
◇ ◇
原田さんに関する情報は極端に少ない。
「神田の旅館の一人娘だったのよ」「ピアノも弾いたの」
かつて、裕福だったらしい幼少期の思い出を語っていたという。いつ本県に移り住んだのか。夫が他界した後は、どんな生活を送っていたのか。詳しく知る人はいない。
生活保護を受給しながら県北地域の街で独り暮らしをしていた。自宅で転倒して動けなくなっているところを発見されたのは2017年1月。搬送先の菅間記念病院(那須塩原市)で認知症と診断され、1人で生活を続けることは困難だと分かった。その年の5月、同市内のサービス付き高齢者住宅に引き取られ、そこで原田さんの生活が始まった。
環境の変化に付いていけず、当時はよく泣いていたという。
「私はどこに歩いて行けばいいのか分からない。手を引いてもらわないと…」
導いてくれる人を探して施設内をうろうろと歩き回った。
「私が悪いんです。私が分からないから、皆さんにご迷惑をお掛けしちゃって。私はどうしたら…」
訪問診療で訪れた医師を見つけると、ぼろぼろと涙をこぼした。
他の入居者たちが地元の言葉で会話するのにもなじめなかった。標準語を使う原田さんの孤立は深まるばかりだった。認知症が急速に進み、原田さんの口から会話が減った。
◇ ◇
19年3月、原田さんは激しい痛みを訴え、再び病院に運ばれた。腹膜炎だった。危険な状態だったが、子宮全摘出手術の末、一命を取り留めた。
ただ、この時の入院を機に認知機能の低下はさらに進んだ。話し掛けても反応がない。食べ物を飲み込む訓練にも口を開かず、経口摂取は不可能だと判断された。
人工的に栄養を補給するための措置はしたが、暮らしていた高齢者住宅に戻るには、経口摂取ができる方がいい。その鍵を握るのが認知機能だった。
「話すことで認知機能が改善すれば食べることも思い出すし、食べ物を飲み込む筋肉も付く」
ずっと原田さんを診てきた菅間在宅診療所(那須塩原市)の医師黒崎史果(くろさきふみか)さん(41)が望みを託したのは、那須町に活動の拠点を置く傾聴ボランティアだった。