究極のアップデート “1983年の松田聖子” を超えるアイドルは存在しない! 1983年 5月9日 松田聖子のシングル「天国のキッス」がオリコン初登場で2位を記録した日

下がるチャートは楽しくない、諸悪の根源は初登場1位!

俗に「チャートは上がるものである」という。

オリコンチャートの話である。今や、坂道グループやAKBグループが代わりばんこに初登場1位を取って、提灯ニュースになるくらいの印象しかないが―― その昔、流行歌はチャートを上がるものだった。

例えば、ラジオから火が点いて、有線のリクエストも少しずつ増え、やがて『ザ・ベストテン』の「今週のスポットライト」に取り上げられ、その間、チャートもジリジリと右上がり―― という具合。自分が応援する曲のチャートを上げようと、ファンもラジオにリクエストしたりと、そこにはストーリーがあった。

それが、最も盛り上がったのが、キャンディーズのラストシングル「微笑がえし」だったと思う。それまで一度もオリコン1位を取ったことのないキャンディーズへの、いわばファンたちからの贈りものだった。全キャン連を中心に、彼らは友人たちにレコードを薦め、街頭でビラを配り、ラジオ局にリクエストを送り続けた。結果、キャンディーズは解散直前に初のオリコン1位となり、物語はハッピーエンドで幕を閉じたのである。

思えば、オリコンチャートが権威を失ったのは、1986年のおニャン子クラブ旋風だったと思う。かの年、彼女たちはグループ、ソロ含めて51週中、実に35週も1位に輝く。しかも、その全てが初登場1位だった――。

そう、初登場1位―― 諸悪の根源はコレである。初登場1位ということは、あとは下がるのみである。そこに物語はない。極端な話、10位以内の楽曲で、1位以外は全てランクダウンというケースもある。そんなチャートが楽しいワケがない。かくしてオリコンは権威を失い、『ザ・ベストテン』も視聴率を落とし、3年後に終焉を迎えた。

初登場1位を逃した「天国のキッス」その前年の松田聖子は人気低迷?

さて、少々前置きが長くなったが、今回は幸運にも(?)オリコン初登場1位を逃した曲の話である。今から37年前の今日―― 1983年5月9日、同日発売の近藤真彦「真夏の一秒」に惜しくも敗れ、初登場2位となった「天国のキッス」に始まる、1983年の松田聖子の物語である。

 Kiss in blue heaven
 もっと遠くに
 Kiss in blue heaven
 連れていってね DARLIN'

話は少しばかり、さかのぼる。
この年、松田聖子は正念場を迎えていた。前年の1月、8枚目のシングル「赤いスイートピー」からユーミンを作家陣に迎え、髪を切って、声を張らない歌唱でキャンディボイスに踏み出した彼女は、見事にイメージチェンジに成功。それまでの男性偏重のファン層から大きく舵を切り、女性ファンの開拓に成功した。

だが、次のシングル「渚のバルコニー」で彼女はやや強めのパーマのサイドウェーブヘアとなり、その次の「小麦色のマーメイド」から徐々にセールスを落とし始める。それは5作ぶりに財津和夫サンを作家陣に迎えた「野ばらのエチュード」でも挽回できなかった。

その頃の彼女は、女性ファンを意識しすぎる余り、大人っぽく魅せるはずが、正直おばさんっぽいビジュアルになっていたことも人気低迷の一因と言われた。加えて、彼女の背後に迫る1人のニュー・ディーバの存在―― 中森明菜である。同年11月にリリースされた3枚目のシングル「セカンド・ラブ」で少女は一躍、アイドルのトップグループに躍り出た。

迎えた1983年、10作連続1位なるもプロジェクトは最大の危機

そこで迎えた1983年である。
この年の松田聖子は、1つの記録がかかっていた。次の12枚目のシングルでオリコン1位に輝けば、ピンク・レディーの持つ9作連続1位を上回り、新記録となる。2月3日、「秘密の花園」リリース。当初、財津和夫サンに曲を依頼するも、若松宗雄プロデューサーが納得せず、松本隆サンの詞はそのままに、再びユーミンに曲を依頼したという。

出来上がった楽曲は、メルヘン調の秀作となり、見事1位で新記録を樹立。それだけじゃない。松田聖子は髪をナチュラルに戻し、衣装も白のミニスカートにイメージチェンジ(『ザ・ベストテン』でパンチラする伝説の衣装ですナ)。往年の可愛さを取り戻しつつあった。背景に、彼女が主演する映画『プルメリアの伝説』の撮影があった。同映画で彼女はハワイに住む女子大生を演じたのだ。

だが―― ユーミンをしても、松田聖子のセールスの低下は止まらなかった。同曲は40万枚を切り、遂にデビュー曲の「裸足の季節」に次ぐワーストとなる。

松田聖子プロジェクトは最大の危機を迎えつつあった。この時期、中森明菜は4枚目のシングル「1/2の神話」が、オリコン6週連続1位の大ヒット。セールスも57万枚と圧倒する。聖子サイドは次の一手を誤ると、トップアイドルの座を後輩に明け渡すギリギリのところへ追い詰められていた。

松本隆と若松プロデューサーが打って出た冒険、それは細野晴臣の起用

ここで、若松プロデューサーと松本隆サンは1つの冒険を打つ。松本サンの、はっぴいえんど時代の朋友である細野晴臣サンを作家陣に迎えたのだ。この年、YMO を結成して6年目を迎える細野サンは、一周してアイドル歌謡曲風の「君に、胸キュン。」をリリースするなど、自由に遊べるポジションにいた。彼の最先端の感性に賭けたのである。

かくして、1983年4月27日、松田聖子13枚目のシングルがリリースされる。作詞・松本隆、作曲・細野晴臣。前述の通り、近藤真彦の「真夏の一秒」と発売日が重なった。それが、伝説の始まりのサインだった。

 ビーズの波を空に飛ばして
 泳げない振りわざとしたのよ
 ちょっとからかうはずだったのに
 抱きしめられて気が遠くなる

その楽曲は、転調に次ぐ転調と、極めて難解なものだった。だが―― 圧倒的に新しかった。そして、初期の聖子ソングを思わせる、メジャーな明るさもあった。何より、前作より髪も伸び、ストレートパーマをかけた聖子の新しい髪形は、完璧なアイドルのフォルムを形成していた。

一聴して難解な楽曲は、当初は聴き手側に戸惑いも見られた。初週、2位に甘んじたのは、そういうことである。だが、噛みしめるほどに味が出る同曲は、徐々にファンを魅了した。平たく言えば、それが芸術である。結果、翌週のオリコンでは「真夏の一秒」を抜いて1位に。そう、チャートが上がるところに、物語は生まれる。

ニュー・ディーバ中森明菜、聖子プロジェクトを本気にさせた存在感

聖子ファンの間で、「1983年の松田聖子」は特別な意味を持つ。この年、彼女はビジュアル面で初期のナチュラルな可愛さを取り戻し、究極のアイドルへとアップデート。楽曲面では、シングル「秘密の花園」から4枚連続で後世に残る名作を残す(84年の「Rock'n Rouge」まで入れると5枚連続)。そして、歌声面でも「ガラスの林檎 / SWEET MEMORIES」で “キャンディボイス” が完成の域を見る――。21世紀の今日から振り返っても、この年の松田聖子を超えるアイドルは他に見当たらない。

もちろん、それは松田聖子が一人でなしえた偉業ではない。若松宗雄プロデューサーを筆頭に、松本隆サンを始めとするそうそうたる作家陣による “松田聖子プロジェクト” が起こした奇跡であり、偉業である。そして、忘れちゃいけない中森明菜の存在感―― 彼女の猛追が、プロジェクトの作家陣を本気にさせたと言っても過言ではない。その意味では、近藤マッチもこの物語に欠かせない名バイプレイヤーの一人だろう。

 おしえて ここはどこ?
 私生きてるの?
 天国に手が届きそうな
 青い椰子の島

黄金の6年間とは、東京が最も面白く、猥雑で、エキサイティングだった1978年から83年までの6年間を指す。様々な才能がクロスオーバーした時代であり、いくつもの分野で後世に名を遺す名作が生まれた。松田聖子プロジェクトもその1つであり、その集大成が1983年である。

1983年の松田聖子。今回のコラムは、まだ、ほんのプロローグに過ぎない。

カタリベ: 指南役

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