ヤンキース・ジャッジ獲得の起点は30年前の超有望株だった

2017年に当時のメジャー新人記録となる52本塁打を放つなど、今やチームを代表するスター選手となったアーロン・ジャッジ(ヤンキース)。「CBSスポーツ」のマイク・アクシサ記者がヤンキースのジャッジ獲得までのプロセスを辿っていくと、1990年にとあるプロスペクト外野手と契約したことが起点となっていた。その外野手とは、歴代最多セーブの絶対的守護神マリアーノ・リベラのいとことしても知られるルーベン・リベラである。

1990年11月、ヤンキースは2人のリベラと契約した。1人は名クローザーとして殿堂入りのキャリアを歩むマリアーノ、もう1人は当時マリアーノ以上の期待を背負っていたルーベンである。「ベースボール・アメリカ」はプロスペクト・ランキングでルーベンを1995年に全体2位、1996年には全体3位にランクインさせ、「次代のミッキー・マントル」と紹介するほど高い評価を与えていた。しかし、期待通りに大成せず、1997年4月、伊良部秀輝とのトレードでパドレスへ放出された。

伊良部はメジャー挑戦の際、ヤンキースへの入団を希望していたが、ロッテは提携球団のパドレスに保有権を譲渡。しかし、伊良部はヤンキース入団にこだわり続け、ルーベンを含むトレードでヤンキースへの移籍が実現した。伊良部の移籍を巡る騒動は、ポスティング制度導入のきっかけになったと言われている。

1999年12月、ヤンキースはジェイク・ウエストブルック、テッド・リリーら3選手とのトレードで伊良部をエクスポズへ放出。2000年6月にはデービッド・ジャスティスを獲得するためにウエストブルックを含む3選手をインディアンスへ放出した。さらに、2001年12月にはロビン・ベンチュラとのトレードでジャスティスをメッツへ放出。2003年7月にはベンチュラをドジャースへ放出し、スコット・プロクターら2選手を獲得した。

プロクターは2006年にメジャー定着を果たし、83試合に登板して102回1/3を投げるなどチームに不可欠な戦力となっていたが、翌2007年7月にウィルソン・ベテミーとのトレードでドジャースへ放出。2008年11月にはベテミーら3選手を放出し、ホワイトソックスからニック・スウィッシャーら2選手を獲得するトレードが成立した。そして、2012年オフにフリーエージェントとなったスウィッシャーはヤンキースからのクオリファイング・オファーを拒否。4年5600万ドルの好条件でインディアンスと契約した。

スウィッシャーがインディアンスへ流出したことにより、ヤンキースは2013年のドラフトにおける全体32位の補償指名権を獲得。その全体32位で指名したのがジャッジである。つまり、ヤンキース・ジャッジの誕生は、ルーベン・リベラから始まり、伊良部、ウエストブルック、ジャスティス、ベンチュラ、プロクター、ベテミー、スウィッシャーというプロセスを経ていたことになる。

なお、余談だが、ルーベンは2002年2月にマイナー契約でヤンキース復帰を果たすも、スプリング・トレーニング期間中にデレク・ジーターのロッカーからバットとグラブを盗んで転売していたことが発覚し、同年3月に解雇されている。メジャーでのプレーは2003年が最後だが、その後もメキシカン・リーグなどで現役を続行し、45歳となった昨季もメキシカン・リーグで35試合に出場した。

© MLB Advanced Media, LP.