【私が野球を好きになった日16】他界した恩師を追って…北海道移転決定後初のハム戦士の今

今年4月に北海道・足寄の監督に就任した元日本ハムの池田剛基さん【写真:石川加奈子】

2002年鵡川でセンバツ出場→ドラフト7巡目で日本ハム入りした池田剛基さん

Full-Countでは選手や文化人、タレントやアナウンサーら野球を心から愛する人々の「私が野球を好きになった日」を紹介。第16回は、元日本ハム選手で今年4月1日付で北海道・足寄の監督に就任した池田剛基さん。北海道移転決定後初のハム戦士となった池田さんは亡くなった恩師の背中を追うように、高校野球の指導者になっていた。

1人の指導者との出会いが運命を変えた。池田さんが札幌新琴似リトルシニアに所属していた中学3年の秋。練習場にやって来た1人の男性が「お前! いいな!」といきなり声をかけてきた。砂川北監督時代に春夏合わせて3度甲子園に出場し、鵡川に異動していた佐藤茂富監督だった。

「家に何度も来てくれて、最初に両親が佐藤先生に取り込まれました(笑)。僕自身は鵡川って北北海道? というぐらい、鵡川のことを全く知りませんでした。ただ、佐藤先生だけが『お前をプロに入れる』と言ってくれたんです。それが決め手でした。今思うと、何の根拠があって、そんなことを言ったのかなと不思議ですけど」と池田さんは笑う。それもそのはず。当時の鵡川は室蘭支部予選すら突破したことのない弱小校だった。

中学時代に強打者としてならした池田さんの元には私立強豪校からの誘いが複数あったが、それらを蹴って、鵡川への進学を決めた。「選択肢がある中から自分で選んだのは、あの時が初めてでした」。小学3年で野球を始めた時も、札幌新琴似リトルシニア入団も「最初は友人にくっついていっただけ」と主体的に決めた訳ではなかった。そんな15歳の少年を惹きつける強烈な何かを佐藤監督は持っていた。

「日々の生活がプレーに出るぞ」と言われ続け、大切なことを教わった

入学すると、小、中学校時代と違って、毎日練習することが新鮮だった。「“野球漬け”は初めて。毎日、野球ができて幸せでしたし、充実していました。上手くなっている実感もありました」と一気に野球が好きになった。

厳しさと愛情にあふれる指導を受け、高校3年間で心身ともに成長した。「大きかったのは寮生活です。『日々の生活がプレーに出るぞ』と言われ続けました。野球をすることの意味、一生懸命やることの大切さ、本当にカッコいいというのはどういうことなのか。本当にいろいろなことを教えていただきました」と語る池田さん。今でも恩師と同じように、洗面所を出る時にはきれいに水滴を拭き取り、風呂を出る時には全ての桶をきれいに洗って並べる。

主将になって迎えた2年秋の秋季全道大会で8強入り。翌02年春のセンバツに21世紀枠で初出場し、三木(兵庫)を破って初勝利を挙げた。その長打力が、04年から北海道に移転する日本ハムの目に留まり、02年ドラフト7巡目で日本ハムに入団した。「佐藤先生に出会っていなかったら、そこまで行けなかったと思います」と池田さんは恩師に感謝する。

05年シーズン限りで現役引退した後は、球団のアカデミーコーチとして活躍した。18年春に球団がパートナー協定を結んでいた足寄町の教育委員会に任期付職員として採用され、町内で野球の普及や育成に携わった後、今春、足寄の監督に就任した。打診を受けた際に頭をよぎったのは、昨年8月に79歳で亡くなった佐藤監督のこと。「タイミング的にも感じるものがありました」と快諾した。

4月9日、初練習時のミーティングでは「野球を始めた頃のワクワク、キラキラした気持ちを持ち続けてやろう」と選手たちに呼びかけた。その気持ちは、池田さん自身が野球を好きになった高校時代に抱いたもの。目指すのは恩師と同じ攻撃的な野球だ。自身が02年センバツ出場時に経験した町の熱狂ぶりを人口6600人の足寄町でも再現したいと意気込んでいる。(石川加奈子 / Kanako Ishikawa)

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