憑きもの体験記1「ガラスに目を走らせると、自分の50センチ後ろに人の気配を放つ陽炎が映っていた」|川奈まり子の奇譚蒐集三八

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用意された作業部屋は神社の奥座敷

――神社で仕事をすることになるとは思わなかった。

デスクやパソコンが次々に運び込まれ、作業場が組みあげられていく。

その背景は金屏風。足もとに敷き広げられているのは緋毛氈。

そこを総勢30名の20代から30代の若い男女が踏み荒らして、一種の引っ越し作業を敢行中だ。

緋毛氈の下には畳。何十畳あるのか見当がつかないが、かなり広々とした大広間だ。聞けば、結婚式などを行う際に、新郎新婦や親族の控え室として用いられる部屋なのだとか。

神社にこんな座敷があるなんて知らなかったので、二重に驚いている。

まあ、無智なだけなのだろう。まだ19歳で、参列した経験が乏しいし、神式の結婚式を挙げる人たちはどちらかと言えば珍しい……たぶん。少なくとも、親戚には神式派は1人もいなかった。だから想像したこともなかったのだ、神社にはこんな奥座敷があったとは。

いや、そういうことじゃないな。うん。違う。

――神社とは、プログラミング作業のために気安く場所を譲ってくれるものなのか?

こんなの、どうしたって、初耳である。

ソフトウェアハウスに就職して1年余り。

これまでの作業場といえば、勤め先のオフィスか、さもなければ親会社である大手エレクトロニクスメーカーの会議室か、そうじゃなければ発注元の企業の倉庫などだった。

だから今回も、依頼主の百貨店か親会社に出向くことになるのだろうと思っていたのだ。

ところが、当の百貨店から神社を作業場として指定された。

他に適切な場所が無いと言われたそうだが、件の百貨店は、ここ川越――この神社から徒歩3分のところ――に大きな本店ビルがあるほか、県内に支店を複数有している。他にスペースが無いというのは信じがたい。

第一、親会社は業界で五指に入るエレクトロニクスメーカー大手だから、長期のプログラミング作業に最適な作業場なんていくらでも提供できるのだ。

それなのに、百貨店の希望をあっさり受け容れて、東京から30人も神社に送り込んだわけだ。

この神社は由緒正しそうな、なかなか荘厳なお社だ。なぜここ? と、送り込まれた技術屋集団の顔には一様に戸惑いの表情が浮かんでいる。

違和感が激しいったら、ない。

……まさかとは思うが、今回の客である百貨店は、POSシステムのパッケージ開発及びカスタマイズを通じて、各支店を神の御業で加護しようと企てているのでは?

神社でプログラミング作業をさせるのは、もしや、そのため……?

「彩乃ちゃんも、ボーッとしてないで手伝って!」

3つ上の先輩(2年前までは職場で紅一点だった)に叱られて、我にかえった。

「すみません!」手渡されたダンボール箱を抱えた。製薬会社のロゴマークがプリントされた箱だったので、中身は精力剤ドリンクだと見当がついた。

先輩も同じ箱を持って、部屋の隅の方へ運びはじめる。その斜め後ろをついていきながら、言い訳のように話しかけた。

「なんで神社でやらせようとするのかなぁって考え込んじゃって」

先輩は襖と柱に挟まれた角に箱を積みながら、低い声で応えた。

「あんまり噂をするのはよくないと思うんだけど、特定の神社を守り神にしている会社は少なくないからね」

「じゃあ、この神社は〇〇百貨店さんの守り神?」

「かもしれないっていう話だよ。納期まで半年もあるんだから、そのうち、わかってくるんじゃないの? でもさ、そんなこと別にどうだっていいじゃない? 今回、いつもよりいろいろマシじゃない?」

「たしかに……」

破格の待遇と言ってもよかった。作業期間中の宿として、駅前のビジネスホテルが用意されており、週休2日、平日の昼には弁当が付く。

「ここも、静かで清潔で、広さも申し分ないよね!」

「そうですね」

コンクリの床に寝袋を敷いて仮眠しながら作業したこともある。

仮眠することさえ想定されておらず、休むときは机に突っ伏すしかない、座りっぱなしの作業を乗り越えたことだって。

「とっても、ありがたいです。〇〇百貨店さん、太っ腹すぎますね」

「うん、感謝しかないよ! 彩乃ちゃんと私、ホテルで相部屋だよ。今夜からよろしくね。いびきがうるさかったら起こしてくれていいからね!」

――この先輩が優しい人でよかった。

「ちゃん」づけで呼ばれるのは気になるが、社で最年少なのだから仕方ない。

「今夜は、一緒にホテルに引き揚げようね。きっと夜桜が綺麗だよ」

はい、と、答えながら、先輩の視線をなぞると、庭の桜が磨き込んだ縁側に仄かに白く影を落としていた。

神社の境内のそこかしこに薄紅色の花霞が掛かっている、今はちょうどそんな頃合いなのだった。

川越八幡宮で体験した怪異

――さて、いきなり私が19歳の「彩乃ちゃん」に成り代わって語っているので、戸惑われた読者さんもいらっしゃることだろう。

この体験談の語り手、プログラマーの彩乃さんと私は、去年(2019年)青森県で開かれた怪談会で出逢った。その後、彼女は、私が怪異体験談を募集していると知ってメッセージを送ってくださり、インタビューにも応じていただいた次第である。

彩乃さんは現在40代後半。この話を語るにあたって、「今から30年以上前の出来事になるのですが」と前置きされた。

そう。これは、ITという言葉が存在しなかったか、在ったとしてもまったく一般的でなかった90年代に起きた出来事なのだ。

令和2年現在と平成初期の当時とでは、社会情勢に異なる点が多い。

彩乃さんは高校卒業後に上京し、すぐにソフトウェアハウスに技術者(プログラマ)として採用されたのだが、その頃、そういう女性は珍しかった。

今でも女性のシステムエンジニアは少ないし、高卒でいきなり……という人は男女問わず多くない。彩乃さんの頃は、さらに稀だった。

採用から間を置かず、彼女は大手電子機器メーカーの子会社に派遣された。すると、その職場には、彼女自身を除くと女性が1人しかいなかったのだという。

それが、すでにご登場いただいた「先輩」だ。以降は、この人を仮にタナカさんとして綴ろうと思う。

その春、〇〇百貨店のシステム開発を行う作業チームに参加したメンバーは、タナカさんをはじめとする彩乃さんたちの会社のプログラマ10人と、系列会社のスタッフ20人の、合計30人だった。

彼ら全員が、神社の奥座敷で作業をすることになったわけである。

ちなみに、この神社は誉田別尊(応神天皇)を祭神とする川越八幡宮だった。

インタビューの際、彩乃さんは神社の名前など細部を忘れてしまっていた。

ただし、「たぶん八幡宮だったと思います」とお話しされた。

川越市の〇〇百貨店本店から近い所に所在して、神前結婚式を挙げられる八幡宮系の神社と言えば、川越八幡宮以外にない。

さらに、こんな手掛かりもあった。川越八幡宮の境内には「相撲稲荷」の別名を持つ民部稲荷神社というお稲荷さまの御社があるのだが、件の百貨店は、この民部稲荷神社を守護神としており、本店の屋上に分社を祀っているのだ。

そのうえ、川越八幡宮には、彩乃さんたちが見たと思しき桜も、幾本かある。

ことに枝垂桜の名木は、よく知られている。

私は写真で見ただけだが、時季になると、実際、薄紅色の霞がかかったかのような幻想的な景色を供する大木だ。

しかしながら、この神社で最も有名な木は、この枝垂桜ではない。

ここには「夫婦銀杏」と名付けられている御神木があり、こちらの方が遥かによく知られている。

上皇・明仁陛下のご生誕を祝して、昭和8年の暮れに銀杏を雌雄1株ずつ並べて植樹したところ、木と木が幹を寄り添わせ、ひとつに結ばれるという奇蹟が起きた。そこで、いつしか、この木に触れると良縁に巡り逢うと言われるようになり、御神木とされたのだという。

おめでたい御神木「夫婦銀杏」と、雅楽の生演奏付きの神前結婚式が人気を集めているとのこと。朱塗りの灯篭が並ぶ石畳の参道を和装の花婿花嫁がしずしずと歩くさまも、実に絵になる。1030年に甲斐守源頼信が創祀した古社だから、格式の高さに惹かれて選ぶ人たちも多かろう。

尚、彩乃さんたちが使っていた新郎新婦と親族の控え室に使われていた座敷は、一般の参拝客は入れない、神殿の奥の方にある。

ちょっとリサーチしてみたところ、他にも控え室として用いている座敷があるようだ。だから一室をプラグラマ集団に使わせていても困らなかったわけだろう。

では再び、怪異を体験した当時の彩乃さんに憑依していただいて、彼女の視点で出来事を綴ろうと思う。

背後に感じた人の気配

赤い柵に左右を挟まれた細い参道の左右に、柵と同じ色の燈篭が一定の間隔で整然と並んでいる。駅から5分、駅前繁華街のすぐそばに、こんな別世界があるなんて……と軽く驚く気持ちが、何日通っても収まらない。

川越は「小江戸」と呼ばれ、蔵造りの町並みなど城下町の面影を残しており、観光スポットとしても人気がある。しかし駅前には現代的な商店街が広がっていたし、今回の作業が終わるまで泊まることになったビジネスホテルも、にぎやかで今どき風な一角にあった。

そのせいか、参道に足を踏み入れるたびにタイムスリップするような心地がした。

参道の石畳に足を乗せた途端、街の喧騒がスッと止んで、静寂に包まれるのは、いったいどのような現象なのか。

たいへん不思議だ。

不思議と言えば、チーム全員が、きっと「なぜ神社で?」と疑問を感じているはずだが、どういうわけか、誰もそれについて論じようとしないことも……。

忙しくてそれどころじゃないというのは、ある。

しかし、それだけではないという気がする。

この雰囲気に呑まれてしまって、みんな黙っているのではないかしら。

実際に工程はハードで、たびたび午前2時頃まで机にへばりつく破目になったが、日曜日は東京の下宿や社員寮に帰ることが許されていた。

数人ずつ連れ立って、駅前に食事しに行くこともあった。

雑談する時間が皆無というわけではなかったのだ。

けれども、神社が作業場になっていることの不思議さを口に出して言う者はいない。

一週間、二週間と日が経つにつれて、皆のこの沈黙自体が奇妙なものに感じられてきた。

作業を始めてからひと月ほど経ったある日のこと、午後の2時頃、トイレに行くために板敷の廊下へ出て、スリッパの踵をパタパタと鳴らしながら急ぎ足で歩いていると、背後に人の気配を感じた。

この廊下は広縁で、中庭に接する廊下の片側にガラス障子の引き戸が嵌っている。反射的にガラスに目を走らせると、自分の後ろに陽炎が映っていた。

夏の坂道に立つ陽炎に似た、透明なモヤモヤが50センチほど後ろにある。

それが、人の気配を放っていた。

信じ難いものに対峙してしまった。

恐る恐る振り向くと、後ろの空間に、自分よりも10センチほど背が高い人の格好の歪みが生じている。

歪んだレンズを通したように、空中が、そこだけ人型に切り取られていて、廊下の床板や窓の対面にある襖の桟が曲がって見えた。

しかも、そいつは絶えず、グニャグニャと動いていた。

声も、出なかった。

恐怖という意識もなく、真っ白な意識のまま、ただ反射的に身体だけが動いた。

すぐに横の襖を開けて、廊下用のスリッパを履いたまま、畳敷きの部屋に飛び込んだのだ。

そこには誰もいなかったが、部屋の奥の襖の向こうから人が会話する声が聞こえてきた。そこで無我夢中で走っていって、襖を両手で引き開けたのだが、一瞬遅かった。

後ろから追ってきた陽炎のようなものが、背にぶつかってくるや、みるみる全身に滲み込んできた。と、同時に、グンッと頭の芯が膨らんだかのような異様な感覚を目の奥に覚え、重い頭痛に襲われた。

「どうしたの? 真っ青だよ?」

タナカさんが目の前に立っていた。

咄嗟に混乱した。が、すぐにわけがわかった。作業室から廊下に出て、2回、角を曲がった突き当たりにトイレがある。隣の使っていない部屋を横切って襖を開けたから、ぐるっと回って元の場所に戻ってきたのだ。

「……今、そこで……」

あれを何と言い表したものか。頭痛が酷くて、何も考えられない。

「……頭が痛くて……今日は休んでもいいですか……?」

「うん! 休みな! ひとりでホテルまで行ける? 送ろうか?」

「いえ…そこまでは…」

心配するタナカさんに礼を述べ、チーフに断りを入れて、駅前の宿に帰った。

幸い、毎月、生理痛が重い方だったから鎮痛剤を持ってきていた。寝間着に着替え、服用してベッドに横になると、自分の身体よりもわずかに遅れて、陽炎のようなあいつも横たわるのが感じられた。

――自分は、侵入を許してしまったのだ。逃げられなかった。

重なられている。手を顔の上に掲げて、ためつすがめつしてみた。

指と指の間に、束の間、立ち上る湯気のような揺らぎが見えた。

それはすぐに消えたが、身体の中に隠れただけであることはわかっていた。

ガチガチと奥歯が鳴った。両手で顔を覆って、震えながら泣いた。(2へつづく)

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