悲劇の皇后甄氏と曹叡の謎

現代まで名の伝わる悲劇の皇后

三国時代はある意味「男の時代」であり、女性の名前が出るのはかなり稀である。

三国志に登場する女性で詳細な記述が書かれている者は少なく、皇后という重要な地位にいても大半は名前しか書かれず生涯が不明である者も少なくない。(その分『三國無双』などではキャラ付けしやすいメリットはある)

※甄夫人像(清代)

三国志の女性の中でも比較的生涯が詳しく書かれているのが、ゲームでも活躍する甄氏(しんし)である。(『三國無双』では甄姫だが、ここでは『三國志』の甄氏で統一する)

勿論、甄氏が笛や鞭を武器に戦場を駆け回っていたなどという記述は存在しないが、曹丕の妻として皇后になった事と、魏の二代目皇帝である曹叡の母であるためその名が現代まで伝わっている。

だが、甄氏が三国志の女性で比較的有名なのは皇帝の妻だったからではない。

曹丕に近しい女性だったからこそ甄氏は正史に記述が書かれているが、悲惨な死を遂げた彼女の最期と遺体の扱いから「悲劇の女性」であった事が今日まで伝わっている。

今回は、甄氏の生涯と正史に書かれた曹叡の謎に迫る。

曹操と曹丕が奪い合った絶世の美女

甄氏は上蔡県(現在の河南省)の県令である甄逸の娘(八人兄弟の末っ子)として生まれた。

甄家は地元の名家であり、甄氏も聡明だったと書かれている。(但し、甄豫、甄厳、甄堯、甄姜、甄脱、甄道、甄栄と他の兄弟は名前が出ているのに、何故か甄氏だけ名前が書かれていないのは大きな謎である)

袁紹の次男である袁熙の妻となり、その美貌は河北一帯に轟いていたが、袁紹の死後、袁家の領地とともに甄氏を狙っている者がいた。

※曹操

曹操は人材マニアであるとともに、人妻マニアとしても有名であり、呂布配下だった秦宜禄の妻である杜氏が欲しいという関羽の申し出を却下して、曹操が自分のものにしてしまったというエピソードもある。(曹操がぞっこんだった関羽からのお願いよりも自分の欲望を優先したという「曹操らしい」エピソードではあるが、前述の通り関羽に対する「前科」があるため、人妻で美女である甄氏を曹操が見逃さないはずがなかった)

袁家の本拠地であるを攻め落とした曹操は真っ先に甄氏の元に向かうが、曹操を出し抜いて曹丕が先に甄氏を手に入れていた。

甄氏には手を出すなという厳命を無視した曹丕に怒り心頭の曹操だったが、済んだ事を嘆いても仕方ないと切り替え、曹丕に甄氏を娶る事を認める。

だが、その後にこぼした「今回の戦闘で一番得をしたのは奴だ」という言葉からも分かる通り、曹操は甄氏への未練を隠そうとしていなかった。

皇后即位からの悲劇的な最期

※曹丕

220年に曹操はこの世を去ると、後継者となっていた曹丕が漢から禅譲という形で政権を奪い、魏を建国する。

曹丕の妻である甄氏は皇后となり、一国の女性としての地位を極める。

世継ぎ候補となる曹叡も生まれ、甄氏は公私ともに絶頂期を迎えたと思われたが、曹丕の寵愛は甄氏から他の女性へと離れ、正室という立場でありながら曹丕から疎まれようになる。

失意の甄氏は曹丕に対する恨み言を述べるが、それが曹丕の耳に入ったため死を命じられる。(曹丕の側室が密告したという説もある)

即位してから一年足らずの短い皇后生活だったが、漢晋春秋によると曹丕は甄氏の遺体に対して、髪をかき乱した上に口に糠を詰め、埋葬の際には棺にも入れずに葬ったと書かれている。

神経質な性格で小さな事でも根に持ったという曹丕の性格をよく表したエピソードだが、曹丕自身も短命であり、40歳の若さでこの世を去る。

奇しくも、それは自身が死に追いやった甄氏と同じ享年だった。

二代目皇帝曹叡の謎

曹丕の後を継いだ曹叡は非業の死を遂げた母親の名誉の回復に奔走し、文昭皇后と諡する。(残念ながら、曹叡の記述は少なく母親である甄氏との関係は不明である)

内政面に於いても、父と祖父の遺産である優秀な人材に恵まれていたため、存命時は国に大きな破綻が起きる事もなく、安定した統治を行っていた。

その曹叡も両親同様早死にしてしまい、結論から述べると曹叡の死が魏に致命的なダメージを与える事になる訳だが、曹叡に関する記述には不可解な点がある。

まず、曹丕は死の直前まで後継者を決めていなかった。

曹丕もまだ40歳だったためまさか自分が早死にするとは思ってもいなかっただろうが、甄氏との関係で後ろめたいものがあったにせよ、病が重篤化してから曹叡を後継者にするまで時間が掛かりすぎている。

そして、もう一つは曹叡の生年が「書かれていない」という、一国の皇帝に関する史書としては有り得ない欠陥である。

結論の出ない疑惑と今後の期待

曹叡は239年に36歳で亡くなったと書かれているため、逆算すると204年生まれで曹丕が甄氏を娶った年になる。

そうなると、曹叡は曹丕ではなく袁熙の子供だったという疑惑が生じる。(実は既に曹叡が生まれていたか、甄氏が身ごもっていたのであればその時点で袁熙の子供であるとはっきりしているため疑惑にもならないところだが、陳寿が曹叡の生年を明らかにしない理由にはならない)

陳寿の記述が誤りで本当は206年生まれの34歳没だったという裴松之の説が正しくない限り、曹叡は曹丕の「養子」だった事になるが、曹丕と甄氏が自分達の子供ではない事を承知で養子として育てていた可能性も100%排除は出来ない。(歴史書に書かれた内容が真実とは限らない)

証拠となる記述がないため、結局は自分が信じる説を支持するしかない訳だが、仮に曹叡が袁熙の息子だった場合、文字通り歴史が変わる「大事件」となる。

幸いな事に、現代にはDNA鑑定という技術がある。

曹操の墓と遺骨は発見されている(DNA鑑定で子孫の存在も確認されている)訳で、後は曹叡の遺骨が見付かれば同様のDNA鑑定で全てがはっきりする。

勿論、曹叡の遺骨が簡単に発見される事はないだろうが、曹叡の父親の家系がどちらであるにせよ歴史が変わる大発見となるので、今後の調査に期待したい。

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