日本の平和を守るため……かつて戦争に行った祖父たちの記録を調べてみた

「もはや戦後ではない」
※昭和三十一(1956)年度『経済白書』序文より

昭和二十(1945)年の敗戦から75年の歳月が流れた令和二2020年、大東亜戦争の記憶も風化の一途を辿っているようです。

「おじいちゃんはね、むかし戦争に行ったんだよ……」

敗戦時点で20~25歳とすれば、今年で95~100歳。既に多くの方が鬼籍へ入られている事と思います。

「おじいちゃんが生きている内に、もっと戦争の話を聞いておけば良かった……」

そんな声も少なからず聞かれましたが、かく言う筆者も祖父の生前、戦争の話を聞くことはほとんどありませんでした。

戦争に行った祖父たち。彼らはどんな体験をし、何を見聞きしてきたのだろうか。

また、祖父たちにしても、戦争なんてあまり楽しい記憶ではないし、まして敗戦後に広まった反戦主義の中では話したくても聞いてもらえない……かくして多くの方々は、何も言わぬまま世を去って行きました。

古来「死人に口なし」とはよく言ったもので、死んだ人は、もう何も語ってはくれません。しかし、人間生きていれば何かしらの痕跡を残すもの。

本人の口から語られなくても、軍隊に在籍していた記録によって、彼らが体験した戦争の記憶を、断片ながら偲ぶことが出来ます。

そこで今回は、戦争に行った親族の記録(軍歴証明書など)を取り寄せたエピソードを紹介するので、皆さんのご参考になれば幸いです。

軍歴証明書の取り寄せ方

まず、親族の中で誰が戦争に行った(※民間人として戦闘に巻き込まれたとかではなく、軍人および軍属として参戦した)かを、知っている人に確認します。

この時点でなるべく詳細に聞ければいいのですが、陸軍か海軍で問い合わせ先が違うので、どちらだったかを確認できると、二度手間のリスクを防ぐことが出来ます。

陸軍の場合は、戦争に行った親族(以下、当人とします)の本籍地がある都道府県に、海軍の場合は全国一律で厚生労働省に問い合わせますが、その際には以下が必要となります。

  • あなた(請求者)と当人の関係を証明する書類(写し)
    (あなたが代理で請求する場合は、委任状)
  • あなた(請求者)自身の身分証明書類(写し)
    (あなたが代理で請求する場合は、委任者の分も)
  • 手数料など

1、は戸籍謄本を取り寄せて、親族としてつながりがあることを証明します。担当の方が判りやすいよう、手書きでいいので簡単な家系図も添えてあげると親切でしょう。

※基本的に当人から3親等以内の親族でないと軍歴証明書は請求できませんが、その場合は該当する方がいれば、委任状を書いてもらいましょう。

※ちなみに、以前に紹介した家系図の作り方はこちら
素人でもここまで出来る!自力でファミリーヒストリー(家系図)を作ってみた

2、は運転免許証などで十分です(自治体によって、写真がないものではダメだったり、複数求められたりする事もあります)。

3、は直接窓口に行けば手数料だけですみますが、遠方の場合は送料(返信分も含む)もかかり、また手数料の支払いは郵便為替で行うことが多いようです。
※郵便為替は、郵便局で買えるので窓口にご相談願います。

……と、ここまで書いて来ましたが、いきなり窓口に行ったり、必要書類を送ったりする前に、まずは電話で確認しましょう。

と言うのも、軍歴証明書の根拠となる記録(兵籍簿など)が戦火で焼失していたり、そもそも聞き取った情報が勘違いだったりすると、二度手間やコストの無駄が発生してしまうからです。

戸籍謄本にある当人の氏名や本籍地、生年月日を伝えれば照会してくれるので、その上で「ある」となったら、初めて請求しましょう(筆者の場合も、そのようにアドバイスを頂きました)。

だいたい請求してから2~3週間で送られて来ますから、それまで楽しみに待っていましょう。

軍歴証明書でたどる祖父の足取り

さて、軍歴証明書が届いたので、さっそく見て見ましょう。

軍歴証明書。活字に打ち直してくれてあるので、とても読みやすい。

これは母方の祖父のものですが、その書面には祖父が陸軍に入営(入隊)してから現役満期まで、異動や昇進などの履歴が記録されています。

せっかくなので、ご興味ある方はざっと読み流して「当時の兵隊さんはこんな感じに過ごしたんだな」と思いを馳せてみるのもいいでしょう。

昭和19(1944)年……20~21歳
4月1日 陸軍二等兵
現役兵として第13航空教育隊第2中隊に入営

4月5日
昭和18年陸亜機密第500號に依り第31航空通信連隊に転属を命ず
第1中隊に配属

7月30日
篠山(現:兵庫県丹波篠山市)出発

7月31日
第10航空通信連隊に転属を命ず
第1中隊に配属

8月1日
青森出帆 函館上陸

8月4日
稚内出帆 樺太大泊(旧:大泊郡大泊町)上陸
大谷(旧:豊栄郡落合町)着

10月1日 陸軍一等兵

昭和20(1945)年……21~22歳

7月12日
移駐のため大谷出発

7月14日
大泊出帆 稚内上陸

7月15日
幸震(さつない。現:北海道帯広市)着
同日より(昭和18年5月27日戦時警備下令)北海道帯廣市外幸震第10航空通信連隊に於いて直接警備勤務(戦務丁)に服す

8月1日 陸軍上等兵

7月15日~8月14日
戦務丁に服す

9月15日
帰休除隊

11月30日
現役満期

(以下余白)

※一部、注釈を入れたり、読みやすく体裁を変えたりしています。

敗色が濃厚となってきた戦局を前に、本籍地の東京都から丹波篠山へ通信兵として入隊。

3か月間の基礎教練を経て慌ただしく樺太で国境警備に当たり、やがて北海道まで後退し、現地で敗戦処理を済ませたあと除隊となり、帰って来た1年8か月の記録が綴られていました。

最前線ではないため、敵軍と交戦したような生々しい記録はなかったものの、兵站(後方支援)は軍事の基本ですから、重要な任務に気の抜けない日々が続いたことでしょう。

もっとリアルな記録が手に入ることも

ちなみに、自治体によっては軍歴証明書という(活字に打ち直された)形でなく、兵籍簿などの写しを直接送ってくれることもありました。こちらは実務的に使っていただけあって、もっとびっしりと書き込まれています。

陸軍戦時名簿。恩賜の煙草を貰ったエピソードなども記載。

こちらは陸軍戦時名簿、曽祖叔父(曽祖父の兄弟)のものですが、左の履歴欄にこれでもかとばかりびっしりと書き込まれています。

流石に内容は割愛しますが、大陸各地を転戦し、近衛歩兵(天皇陛下を護衛する兵)として内地に帰還。戦局の悪化によって再び召集され、首都圏の防衛に当たりながら終戦を迎えました。

海軍兵籍簿。黄ばみかけた紙のシミや、書き殴ったような文字に、現場の忙しさが生々しく感じられる

もう一つ、従伯祖父(いとこおおおじ。祖母の従弟)の兵籍簿も取り寄せられましたが、こちらは海軍のもので、昭和十九(1944)年2月9日にマーシャル群島クヱゼリン島で戦死。その後、上等水兵に特進している事がわかります。

靖国神社の御祭神調査。この他に「祭神之記」という立派な装丁の証明書も貰える

また、戦死されている方であれば靖国神社(やすくにじんじゃ)でも御祭神として祀(まつ)られている事が多く、当人の氏名や本籍地などを伝えれば、照会して貰えますので、もし兵籍簿などがなくなっていても、親族の足跡を辿れる可能性があります。

終わりに

以上、戦争に行った親族の記録を取り寄せる方法を紹介して来ましたが、そういう事を調べていると、

「物好きだねぇ」「死んだ人の記録なんて調べて、いったい何になるの?」「ましてや戦争の記録なんて、若いくせに辛気臭い」

などと言った声が、少なからず寄せられます。しかし、現代日本の平和と独立は、いったい誰が守ってきたのでしょうか。

戦争は人類の歴史……今日、当たり前のように見えるかも知れませんが、平和というものは、たゆまぬ努力によって保たれてきたのです。

故郷へ帰る復員兵たち。本当にお疲れ様でした。ありがとうございます。

先人たちが命を懸けて受け継いでくれた平和に感謝し、次世代へと受け継いでいくのは、現代を生きる私たちの務めではないでしょうか。

戦争の記録は、そんな先人たちを思い出す縁(よすが)となり、きっと彼らも喜んでくれることでしょう。

(文/角田晶生(つのだ あきお): 草の実堂編集部)

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