​​なぜ子どもたちの論理力は育たないのか その原因は「察する文化」にある

なぜ子どもたちは、論理力を獲得できないのか。その大きな原因の一つに「察する文化」があるのですが、そのことがこれからの時代の問題として、大きくクローズアップされてくるように思えます。

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欧米は「常識」でなく「契約」が重んじられる社会

アメリカもヨーロッパも多民族国家です。隣に住んでいる人や、職場で隣り合う人が、異なる人種であることは当たり前の世界。人種が違えば、背負っている文化も宗教も習慣もことごとく異なります。自分の常識が他の人にも通用するとは到底考えていません。日本のような「あうんの呼吸」などはありえない世界です。日本人は「常識」を疑うことをしませんが、欧米ではそれぞれのもつ常識が異なるのが当たり前という世界なのです。

欧米では、お互いに理解できない人たちが共存しようとするので、常識ではなく「契約」が重んじられる社会になっています。そのために、子どものころから生きていくための武器として、言語(コミュニケーション能力)の訓練が重要視されているのです。

言語の構造もそれに対応しています。英語では疑問詞が文の冒頭に来ます。肯定文か疑問文か、あるいは否定文かが文のはじめのほうで示されるわけです。つまり最初にそれを明示しなければ、相手には理解されないと思っているからです。それに対して日本語では、肯定か否定か、あるいは疑問文かは、文末になってようやく明らかにされます。私たちはそれを不自然に思わないのは、相手が察してくれることを前提としているからなのです。

英語ではまた、イエスかノーかも最初に提示され、要点となるSとVが前にきて、あとから飾りを付け足すという構造をもっています。そして、うまく伝わらないのは、伝え方に問題があるという考え方なので、子どものころから徹底して言語技術を習得していきます。

それに対して、日本人は説明しなくても相手が察してくれると思い込んでいます。実はこのことが、コミュニケーション能力の訓練を阻害する要因になっているのです。子どもたちは、家庭においても親が察してくれるだろうと思って、単語だけで済ませてしまいがちです。

子どもは親を見ているので、父親が「風呂、飯、寝る」で済ませてしまえば、そういうものだと受け止めてしまうのです。もし察してくれなかったとしても、自分の伝え方が悪いとは思わず、察してくれない親が悪い、友達が悪い、先生が悪いという思考回路になってしまうのです。

子どもたちが新時代を生きていくために必要なこと

問題は子どもたちが生きていくだろう、新しい時代のことです。これまでは、察し合う関係性の中で共同体を作ってきたので、それで不自由を感じることはありませんでした。しかし、世の中は核家族化し、地域の共同体意識も都会に行くほど薄れてしまいました。その結果、察し合う関係性は作りにくくなっているのです。社会に出れば、年齢も立場も価値観も異なる他者とうまくやっていかないと生きていけない社会に変わったのです。

その上に、グローバル社会が到来します。育った背景がまったく違う人たちがまじりあって生活し、仕事をする社会です。明確に意思表示をしないと、伝わらない社会。ネットの世界においては不特定多数の他者に意思を伝達するわけですから、やはり、察してもらう文化など通用しなくなります。子どもたちがこれから生きていく社会は、察してくれない社会なのです。

今の子どもたちに決定的に不足しているのはコミュニケーション能力です。コミュニケーション能力はいうまでもなく言語が中心になってきます。子どもたちは「あの先生、ウザいね」と言いますが、なんでウザいのか説明する言葉をもちません。友達同士でなんとなくわかった気になって、コミュニケーションが成立したと錯覚しているだけなのです。そして、子どもたちの語彙力の貧困さを嘆く声はいろいろなところから聞こえてきます。

そんな子どもたちを待っているのは、異質な人間同士が共存する「察してくれない社会」です。昔のように察してくれるようなムラ社会はもう日本のどこにもありません。社会における多様性がますます進行していくのは間違いありません。政府は海外労働力の受け入れに舵を切りました。これまで以上に海外から多種多様な人材が日本にやってくることになります。少子化が進むわけですから、好むと好まざるにかかわらず、そうした人材を受け入れざるを得ないことになります。

そこで、「察してくれない」異質な人たちと共存する社会が到来。いくら偏差値が高くても、コミュニケーション能力が欠けていれば、社会で活躍するのは難しいでしょう。ということは、子どもの頃から言語を論理的に使って、論理的に物事を整理して、論理的に説明できる訓練が必要になってくるのです。

論理を習得しなければ不特定多数に向けた文章は書けない

「書く」ことの意味も変わってきています。昔は他人に向けて何か書くというのは、手紙などに限られていて、それも手書きで書いていました。「書く」という行為は、新聞記者や作家でもない限り、必ず特定の誰かに向けてなされていたのです。

ところが現在では、「書く」のはもっぱらワープロソフトで、しかも一般の人であっても、ブログやツイッターやフェイスブックなど、電子データで不特定多数に向けて情報を発信しています。

論理を習得しなければ、不特定多数に向けた文章を書くことなど到底不可能です。しかし、多くの子どもたちは、他者を意識することなしにネットでどんどん発信しています。これは言ってみれば、運転の教習を受けていないのに、いきなり公道を走りだしたようなもの。恐ろしいのは、それに対する自覚も危機感も持っていないことなのです。

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